・・・であるから賊になった上で又もや悶き初めるのは当然である。総て自分のような男は皆な同じ行き方をするので、運命といえば運命。蛙が何時までも蛙であると同じ意味の運命。別に不思議はない。 良心とかいう者が次第に頭を擡げて来た。そして何時も身に着・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 磯が火鉢の縁を忽々叩き初めるや布団がむくむく動いていたが、やがてお源が半分布団に巻纏って其処へ坐った。前が開て膝頭が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上せて顔を赤くして眼は涙に潤み、頻りに啜泣を為ている。「どうしたと云うのだ・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・却って宿屋で酒を飲みおぼえたり女にからかったりする事を知り初める位が結局です。もし旅行を仕て真実に自然に接したり野趣の中に身をいたり、幾分かにしろ修業的に得益しようと思ったなら、普通の旅行をしても左程面白い事は有りますまい。悪くすると天晴な・・・ 幸田露伴 「旅行の今昔」
・・・「よオし、初めるぞ。さあ皆んな見てろ、どんなことになるか!」 親分は浴衣の裾をまくり上げると源吉を蹴った。「立て!」 逃亡者はヨロヨロに立ち上った。「立てるか、ウム?」そう言って、いきなり横ッ面を拳固でなぐりつけた。逃亡者は・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・やがてそれが溶け初める頃、復た先生は山歩きでもするような服装をして、人並すぐれて丈夫な脚に脚絆を当て、持病のリョウマチに侵されている左の手を懐に入れて歩いて来た。残雪の間には、崖の道まで滲み溢れた鉱泉、半ば出来た工事、冬を越しても落ちずにあ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・長く濃かった髪は灰色に変って来て、染めるに手数は掛かったが、よく手入していて、その額へ垂下って来るやつを掻上げる度に、若い時と同じような快感を覚えた。堅い地を割って、草の芽も青々とした頭を擡げる時だ。彼は自分の内部の方から何となく心地の好い・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ 夏近くなって山へ遊びに来る人がぼつぼつ見え初めるじぶんになると、父親は毎朝その品物を手籠へ入れて茶店迄はこんだ。スワは父親のあとからはだしでぱたぱたついて行った。父親はすぐ炭小屋へ帰ってゆくが、スワは一人いのこって店番するのであった。・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・おどろおどろ神々の怒りの太鼓の音が聞えて、朝日の光とまるっきり違う何の光か、ねばっこい小豆色の光が、樹々の梢を血なま臭く染める。陰惨、酸鼻の気配に近い。 鶴は、厠の窓から秋のドオウンの凄さを見て、胸が張り裂けそうになり、亡者のように顔色・・・ 太宰治 「犯人」
・・・こういう物の運動に関係した問題に触れ初めると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになって来た。ロレンツのごとき優れた老大家は疾くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折って・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・木の皮を煮てかせ糸を染めることまで自分でやるのを道楽にしていたようである。純粋な昔ふうのいわゆる草木染めで、化学染料などの存在はこの老人の夢にも知らぬ存在であった。この老人の織ったふとん地が今でもまだ姉の家に残っているが、その色がちっともあ・・・ 寺田寅彦 「糸車」
出典:青空文庫