・・・授の手紙を想い出すと同時にこの抽出しとS先生の手紙を想い出したのであったが、今ではもう昔の教室の建物はすっかり取毀されてしまって、昔の机などどうなったか行衛も分らず、ましてやその抽出しの中の古手紙など尋ねるよすがもなくなってしまった訳である・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・と裁判長が夕刊売りに尋ねる。その瞬間に、よほどのぼんやりでない限りのすべての観客のおのおのの大きくみはった二つの眼が一斉にこの不幸な犯人の左の顋下の大きな痣に注がれるのはもとより予定の通りである。その際に、もしかこれが旧劇だと、例えば河内山・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・その由って来るところを尋ねる時、少年のころ親しく見聞した社会一般の情勢を回顧しなければならない。即ち明治十年から二十二、三年に至る間の世のありさまである。この時代にあって、社会の上層に立っていたものは官吏である。官吏の中その勲功を誇っていた・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ 四、五年来、わたくしが郊外を散行するのは、かつて『日和下駄』の一書を著した時のように、市街河川の美観を論述するのでもなく、また寺社墳墓を尋ねるためでもない。自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は疾くにやんで新たなる一曲を始めたと見える。あまり旨くはない。「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると「ビステキの化石を食わせるぞ」と一人が云う。「造り花なら蘭麝でも焚き込めばな・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・と尋ねる。今度は先方も少しは落ついている。「どうするって、別段どうもせんさ。ただ雨に濡れただけの事さ」となるべく弱身を見せまいとする。「いえあの御顔色はただの御色では御座いません」と伝通院の坊主を信仰するだけあって、うまく人相を見る・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・それがこっちから訪ねる場合は、何時でも随意に別れることが出来るのである。この「告別の権利」が、自分になくって来客の手にあるということほど、客に対して僕を腹立たしくすることはない。 一体に交際家の人間というものは、しゃべることそれ自身に興・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 病み疲れた、老い衰えた母は、そう訊ねることさえ気兼ねしていたのだが、辛抱し切れなくなって、囁くように言った。「大丈夫ですよ。お母さん、直ぐ帰って来ますよ、坊やを連れて行って来まさ」と云う方が真実であった。 勿論、直ぐ帰れる・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・余は女主人に向いて鳥井峠へ上るのであるが馬はなかろうかと尋ねると、丁度その店に休でいた馬が帰り馬であるという事であった。その馬士というのはまだ十三、四の子供であったが、余はこれと談判して鳥井峠頂上までの駄賃を十銭と極めた。この登路の難儀を十・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・「では訊ねるが、君はテーモ氏の農夫ファゼーロをどこへかくしたか。」「農夫のファゼーロ?」わたくしは首をひねりました。「農夫だ。十六歳以上は子どもでも農夫だ。」警部は面倒くさそうに云いました。「君はファゼーロをどこかへかくして・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
出典:青空文庫