・・・従って今のところ、もし私の知識で人生の理想標榜というようなものを立てよというなら、まずさしあたりこれを持って来る。人生の理想は自愛である、自己の生である。自分の実行的生活を導いて来たものは、事実このほかになかった。無論実行の瞬間はそんなこと・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・七人とも上着の扣鈕をみな掛けて、襟を立てて、両手をずぼんの隠しに入れている。話声もしない。笑声もしない。青い目で空を仰ぐような事もない。鈍い、悲しげな、黒い一団をなして、男等は並木の間を歩いている。一方には音もなくどこか不思議な底の方から出・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・みんなが牙をむき爪を立ててかみ合いかき合いしているので、ウイリイたちはそこをとおることができませんでした。 ウイリイはそれを見て車から百樽の肉を下して投げてやりました。みんなは喜んですぐにけんかをやめてとおしてくれました。 それから・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ それらの殖民地の中には、アフリカのカーセイジ人が建てた町もいくつかありました。シラキュースはそのカーセイジ人たちと、いつもひどい仲たがいをしていました。ディオニシアスは遂にシラキュース人を率いて、それらのアフリカ人と大戦をしました。そ・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。 おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしい・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 焔は暗くなり、それから身悶えするように左右にうごいて、一瞬大きく、あかるくなり、それから、じじと音を立てて、みるみる小さくいじけて行って、消えた。 しらじらと夜が明けていたのである。 部屋は薄明るく、もはや、くらやみではなかっ・・・ 太宰治 「朝」
・・・A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはしても、兄のほんとうの淋しさは、誰も知らないのだと思いました。 次兄は、この創刊号には、何も発表なさらなかったようですが、この兄は、谷崎潤一郎の初期からの愛読者でありました。それから、また、吉井勇の・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ダイヤのネクタイピンなど、無いのを私は知って居りますので、なおのこと、兄の伊達の気持ちが悲しく、わあわあ泣いてしまいました。なんにも作品残さなかったけれど、それでも水際立って一流の芸術家だったお兄さん。世界で一ばんの美貌を持っていたくせに、・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 日本全国、どんな山奥の村でも、いまごろは国旗を建て皆にこにこしながら提燈行列をして、バンザイを叫んでいるのだろうと思ったら、私は、その有様が眼に見えるようで、その遠い小さい美しさに、うっとりした。「皇室典範に拠れば、――」と、れい・・・ 太宰治 「一燈」
・・・そうすれば、あなたのようなよい人とも、もっともっとわけへだてなくつき合えるのだし。」「そんなことは気にしなくてよいよ。」 屋賃などあてにしていないことを言おうと思ったが、言えなかった。彼の吸っている煙草がホープであることにふと気づい・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
出典:青空文庫