・・・手綱が引かれて馬が止ると同時に防寒帽子の毛を霜だらけにした若いずんぐりした支那人がとびおりた。ひと仕事すまして帰ってきたのだ。「どうしたい?」 毛布を丸めている呉清輝にきいた。「田川がうたれただよ」と呉は朗らかに笑った。「時にゃ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・山間僻地のここらにしてもちと酷過ぎる鍵裂だらけの古布子の、しかもお坊さんご成人と云いたいように裾短で裄短で汚れ腐ったのを素肌に着て、何だか正体の知れぬ丸木の、杖には長く天秤棒には短いのへ、五合樽の空虚と見えるのを、樹の皮を縄代りにして縛しつ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・馬が少し早くなると逃亡者はでんぐり返って、そのまま石ころだらけの山途を引きずられた。半纒が破れて、額や頬から血が出ていた。その血が土にまみれて、どす黒くなっている。 皆は何んにも言わないで、また歩きだした。(体を悪くしていた源吉・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・御覧なさいな、お悪戯をなさるものだから、あなたの手は皸だらけじゃありませんか」 と看護婦に叱られて、おげんはすごすごと自分の部屋の方へ戻って行った。その夕方のことであった。おげんは独りでさみしく部屋の火鉢の前に坐っていた。「小山さん・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・四十の坂に近づかんとして、隙間だらけな自分の心を顧みると、人生観どころの騒ぎではない。わが心は依然として空虚な廃屋のようで、一時凌ぎの手入れに、床の抜けたのや屋根の漏るのを防いでいる。継ぎはぎの一時凌ぎ、これが正しく私の実行生活の現状である・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・これまで多くの人々はふだんの平和に甘えて、だらけた考におち、お金の上でも、間違った、むだのついえの多い生活をしていた点がどれだけあったかわかりません。この大変災を機会として、すべての人が根本に態度をあらためなおし、勤勉質実に合理的な生活をす・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・まさか、私は、このとおり頭が禿げて、子供が四人もあって、手の皮なんかもこんなに厚くなって、ひびだらけでささくれ立って、こんな手で女の柔い着物などにさわったら、手の皮がひっかかっていけないでしょう、このようなていたらくで、愛だの恋だのを囁く勇・・・ 太宰治 「嘘」
・・・いわゆる見やすい観念などと称するものは、例の『常識』『健全な理知』と称するものと同様にずいぶん穴だらけなものかと思います。」 この返答で聴衆が笑い出したと伝えられている。この討論は到底相撲にならないで終結したらしい。 今年は米国へ招・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・すべてがだらけきっているように見えた。私はこれらの自然から産みだされる人間や文化にさえ、疑いを抱かずにはいられないような気がした。温室に咲いた花のような美しさと脆さとをもっているのは彼らではないかと思われた。 私たちは間もなく須磨の浜辺・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 午飯が出来たと人から呼ばれる頃まで、庭中の熊笹、竹藪の間を歩き廻って居た田崎は、空しく向脛をば笹や茨で血だらけに掻割き、頭から顔中を蛛の巣だらけにしたばかりで、狐の穴らしいものさえ見付け得ずに帰って来た。夕方、父親につづいて、淀井と云・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫