・・・…… ――――――――――――――――――――――――― 岩とも泥とも見当のつかぬ、灰色をなすった断崖は高だかと曇天に聳えている。そのまた断崖のてっぺんは草とも木とも見当のつかぬ、白茶けた緑を煙らせている。保吉は・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・と道の中へ衝と出た、人の飛ぶ足より疾く、黒煙は幅を拡げ、屏風を立てて、千仭の断崖を切立てたように聳った。「火事だぞ。」「あら、大変。」「大いよ!」 火事だ火事だと、男も女も口々に――「やあ、馬鹿々々。何だ、そんな体で、引・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 沼南が議政壇に最後の光焔を放ったのはシーメンス事件を弾劾した大演説であった。沼南の直截痛烈な長広舌はこの種の弾劾演説に掛けては近代政治界の第一人者であった。不義を憎む事蛇蝎よりも甚だしく、悪政暴吏に対しては挺身搏闘して滅ぼさざれば止ま・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 先年侯井上が薨去した時、当年の弾劾者たる学堂法相の著書『経世偉勲』が再刊されたのは皮肉であった。『経世偉勲』の発行されたのはあたかも侯井上の欧化政策時代であって、その頃学堂はジスレリーに私淑しているという評判だった。が、政治家としての・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・高嶽の絶頂は噴火口から吐き出す水蒸気が凝って白くなっていたがそのほかは満山ほとんど雪を見ないで、ただ枯れ草白く風にそよぎ、焼け土のあるいは赤きあるいは黒きが旧噴火口の名残をかしこここに止めて断崖をなし、その荒涼たる、光景は、筆も口もかなわな・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・と断崖から取って投げたように言って、中村は豪然として威張った。 若崎は勃然として、「知れたことサ。」と見かえした。身体中に神経がピンと緊しく張ったでもあるように思われて、円味のあるキンキン声はその音ででも有るかと聞えた。しか・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・様様の色をしたひらたい岩で畳まれ、その片側の傾斜がゆるく流れて隣の小さくとがった峯へ伸び、もう一方の側の傾斜は、けわしい断崖をなしてその峯の中腹あたりにまで滑り落ち、それからまたふくらみがむくむく起って、ひろい丘になっている。断崖と丘の硲か・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・というふざけ切った読み方をして、太宰は実朝をユダヤ人として取り扱っている、などと何が何やら、ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようとしている愚劣な「忠臣」もあった。私の或る四十枚の小説は発表直後、はじめから終りまで全文削除を命じられ・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・すぐ足もとから百丈もの断崖になっていて、深い朝霧の奥底に海がゆらゆらうごいていた。「いい景色でしょう?」 雪は、晴れやかに微笑みつつ、胸を張って空気を吸いこんだ。 私は、雪を押した。「あ!」 口を小さくあけて、嬰児のよう・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・私は、衣食住に於いては吝嗇なので、百円以上も投じて洋装を整えるくらいなら、いっそわが身を断崖から怒濤めがけて投じたほうが、ましなような気がするのである。いちど、N氏の出版記念会の時、その時には、私には着ている丹前の他には、一枚の着物も無かっ・・・ 太宰治 「服装に就いて」
出典:青空文庫