・・・僕はその声を聞きながら、あした頭の疲れるのを惧れ、もう一度早く眠ろうとした。が、容易に眠られないばかりか、はっきり今の夢を思い出した。夢の中の妻は気の毒にもうまらない役まわりを勤めている。Sは実際でもああかも知れない。僕も、――僕は妻に対し・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・それから仕事に疲れると、テエヌの英吉利文学史をひろげ、詩人たちの生涯に目を通した。彼等はいずれも不幸だった。エリザベス朝の巨人たちさえ、――一代の学者だったベン・ジョンソンさえ彼の足の親指の上に羅馬とカルセエジとの軍勢の戦いを始めるのを眺め・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 姉は、毎日のように、こうして踊ったり、唄をうたったりしましたけれど、弟の笛の音を聞くと、いつも、疲れるということをすこしも身に覚えませんでした。 元来内気なこの娘は、人々がまわりにたくさん集まって、みんなが目を自分の上に向けている・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・で、私は見たくもない寺や社や、名ある建物などあちこち見て廻ったが、そのうちに足は疲れる。それに大阪鮨六片でやっと空腹を凌いでいるようなわけで、今度何か食おうにも持合せはもう五厘しかない。むやみに歩き廻って腹ばかり虚かせるのも考えものだ。そこ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 新吉はよく「古綿を千切って捨てたようにクタクタに疲れる」という表現を使ったが、その古綿の色は何か黄色いような気がしてならなかった。 四十時間一睡もせずに書き続けて来た荒行は、何か明治の芸道の血みどろな修業を想わせるが、そんな修業を・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・近代将棋の合理的な理論よりも我流の融通無碍を信じ、それに頼り、それに憑かれるより外に自分を生かす道を知らなかった人の業のあらわれである。自己の才能の可能性を無限大に信じた人の自信の声を放ってのた打ちまわっているような手であった。この自信に私・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・そして、昼間はひとの分まで仕事を引き受けて、よほど疲れるのだろうか、すぐ横になって、寝入ってしまうのでした。 織田作之助 「天衣無縫」
・・・体のえらい商売だから、柳吉は疲れると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を知っていたので、蝶子はヒヤヒヤしたが、売物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。そういう飲み方も、しかし、蝶子にはま・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・私はこの二つに、月夜になれば憑かれるんですよ。この世のものでないというような、そんなものを見たときの感じ。――その感じになじんでいると、現実の世界が全く身に合わなく思われて来るのです。だから昼間は阿片喫煙者のように倦怠です」 とK君は言・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ その日も午前から午後へかけて少し頭の疲れる難読の書を読んだ後であった。その書を机上に閉じて終って、半盞の番茶を喫了し去ってから、 また行ってくるよ。と家内に一言して、餌桶と網魚籠とを持って、鍔広の大麦藁帽を引冠り、腰に手拭、懐・・・ 幸田露伴 「蘆声」
出典:青空文庫