・・・て大いに飲み、そろそろ酒が苦痛になりかけて来た時に、雑誌社の編輯者が、たぶんここだろうと思った、と言ってウイスキー持参であらわれ、その編輯者の相手をしてまたそのウイスキーを一本飲みつくして、こりゃもう吐くのではなかろうか、どうなるのだろう、・・・ 太宰治 「朝」
・・・でもこれからは、あんな嘘はつくなよ。僕は落ちつかないんだ。」そう言い捨てて又二階へ上り、其の「ロマネスク」という小説を書き続けて居ると、又も、佐吉さんの一際高い声が聞えて、「酒が強いと言ったら、何と言ったって、二階の客人にかなう者はある・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・落ち着くことを得ないのであるが、この旅にもまた、旅行上手というものと、旅行下手というものと両者が存するようである。 旅行下手というものは、旅行の第一日に於て、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の殆んど全部を失っていることに気・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ちょうど吐くいきと、引くいきみたいなものなんです。おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんでしょうね?」「え?」「いるんでしょうね?」「私には、わかりませんわ」「そう」 十日、二十日とお・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・自信を持つということは空中楼閣を築く如く愉快ではありませんか。ただそのために君は筆の先をとぎ僕はハサミを使い、そのときいささかの滞りもなく、僕も人を理解したと称します。法隆寺の塔を築いた大工はかこいをとり払う日まで建立の可能性を確信できなか・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・最初に着く土地はトリエストである。それから先きへ先きへと、東の方へ向けて、不思議の国へ行くのである。 さて到る処で紹介状を出すと、どこでも非常に厚く待遇する。いかに自分の勤めている銀行が大銀行だとしても、その中のいてもいなくても好い役人・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ふと気がつくと、車は止まっていた。かれは首を挙げてみた。 楊樹の蔭を成しているところだ。車輛が五台ほど続いているのを見た。 突然肩を捉えるものがある。 日本人だ、わが同胞だ、下士だ。 「貴様はなんだ?」 かれは苦しい身を・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ やがてお茶の水に着く。五 この男の勤めている雑誌社は、神田の錦町で、青年社という、正則英語学校のすぐ次の通りで、街道に面したガラス戸の前には、新刊の書籍の看板が五つ六つも並べられてあって、戸を開けて中に入ると、雑誌書籍・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・中に物理学者と名のつく人も一人居て、これはさすがに直接の人身攻撃はやらないで相対原理の批判のような事を述べたが、それはほとんど科学的には無価値なものであった。要するにこの演説会は純粋な悪感情の表現に終ってしまった。気の永いアインシュタインも・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・顔面に対してかなり大きな角度をして突き出た三角形の大きな鼻が眼に付く。 アインシュタインは「芸術から受けるような精神的幸福は他の方面からはとても得られないものだ」と人に話したそうである。ともかくも彼は芸術を馬鹿にしない種類の科学者である・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫