・・・榎は見えるかなと顔を上げて見ると、あると思えばあり、無いと思えば無いほどな黒い者に雨の注ぐ音がしきりにする。この暗闇な坂を下りて、細い谷道を伝って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば小日向台町の余が家へ帰られるのだが、向へ上がるまでがちと気味が・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ただ自他の関係を知らず、眼を全局に注ぐ能わざるがため、わが縄張りを設けて、いい加減なところに幅を利かして満足すべきところを、足に任せて天下を横行して、憚からぬのが災になる。人が咎めれば云う。おれの地面と君の地面との境はどこだ。境は自分がきめ・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・脚本と批評はこれに次ぐべき重要の因数に相違ないが、分量からいっても、一般の注意を惹く点からいっても、遂に小説には及ばない。その小説について、斯道に関係ある我々の見逃し能わざる特殊の現象が毎月刊行の雑誌の上に著るしく現れて来た。それは全体の小・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・飴を煮て四斗樽大の喞筒の口から大空に注ぐとも形容される。沸ぎる火の闇に詮なく消ゆるあとより又沸ぎる火が立ち騰る。深き夜を焦せとばかり煮え返るほのおの声は、地にわめく人の叫びを小癪なりとて空一面に鳴り渡る。鳴る中には砕けて砕けたる粉が舞い上り・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
「猫」の稿を継ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚数に筆を擱いて、上下二冊の単行本にしようと思って居た。所が何かの都合で頁が少し延びたので書肆は上中下にしたいと申出た。其辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』中篇自序」
・・・ 権力に次ぐものは金力です。これもあなたがたは貧民よりも余計に所有しておられるに相違ない。この金力を同じくそうした意味から眺めると、これは個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝なものになるのです。 してみ・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・読者はそれに従って、注意深く、含まれたる凡てに目を注ぐならば、あたかも自分が見出した如く完全に証明せられ、理解せられる方法である。綜合というのは、これに反し定義、要請、公理等の過程によって結論を証明する、いわゆる幾何学的方法である。而して彼・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・検挙に次ぐ検挙であった。だが、赤痢ででもあるように、いくら掃除しても未だ何か気持の悪いものが後に残った。「こんな調子だと、善良な人民を監獄に入れて、罪人共を外に出さなけりゃ、取締りの法がつかない」と、「天神様」たちは思わない訳には行かな・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・と、吉里は手酌で湯呑みへだくだくと注ぐ。「お止しと言うのに」と、小万が銚子を奪ろうとすると、「酒でも飲まないじゃア……」と、吉里がまた注ぎにかかるのを、小万は無理に取り上げた。吉里は一息に飲み乾し、顔をしかめて横を向き、苦しそうに息を吐・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一 女は我親の家をば続ず、舅姑の跡を継ぐ故に、我親よりもを大切に思ひ孝行を為べし。嫁して後は我親の家に行ことも稀成べし。増て他の家へは大方は使を遣して音問を為べし。又我親里の能ことを誇て讃語るべからず。 女は我親の家・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫