・・・大勢の後から爪先を立てて覗いて見ると釣ランプの下で白粉をつけた瞽女が二人三味線の調子を揃えて唄って居る。外の三四人が句切れ句切れに囃子を入れて居る。狭い店先には瞽女の膝元近くまで聞手が詰って居る。土間にも立って居る。そうして表の障子を外した・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「豆腐屋があって、その豆腐屋の角から一丁ばかり爪先上がりに上がると寒磬寺と云う御寺があってね」「寒磬寺と云う御寺がある?」「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪ばかり見えて、本堂も庫裏もないようだ。その御寺で毎朝四時・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・髪毛の末から、足の爪先に至るまで、五臓六腑を挙げ、耳目口鼻を挙げて悉く幻影の盾である。彼の総身は盾になり切っている。盾はウィリアムでウィリアムは盾である。二つのものが純一無雑の清浄界にぴたりと合うたとき――以太利亜の空は自から明けて、以太利・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・者だと仰しゃるのはどういう訳ですかと聞くと、先生の曰く、そもそも下駄は歯が二本しかない、それでいくら学校の中を下駄で歩いたところで、床に印する足跡というものは二本の歯の底だけである、しかるに靴は踵から爪先まで足の裏一面が着くじゃないか。もし・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・風はそよとも吹かぬが、しみるような寒気が足の爪先から全身を凍らするようで、覚えず胴戦いが出るほどだ。 中庭を隔てた対向の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女二個の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ この評論集に書かれた内容、書かれざる内容をもたらしている八年の歳月は、プロレタリア文学運動が挫かれてのちの日本現代文学が、戦争の拡大と強行の政策に押しまくられて、爪先さがりにとめどもなく、ファシズムへの屈従に追いこまれて行った時代であ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・ 然し、程なく云われたことの全部の意味を理解すると、彼女の胡麻塩の頭の先から爪先まで、何とも云えず嬉しそうな光が、ぱあっと流れさした。 れんは、感謝に堪えない眼をあげて、幾度も幾度も扉の把手につかまったまま腰をかがめた。「有難う・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 勘助が、もう一人と暗い土間で履物を爪先探りしている時、けたたましい声が聞こえた。「勇吉ん家が火事だぞ――っ!」 その声で、総立ちになった。方々で、戸をあける音もする。勘助は、緊張した声で指揮をした。「おれと、馬さんは現場へ・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・馬車はがたぴしと夜道を行く。遠く遠く夜道を行く。そのうちに彼誰時が近くなった。その時馬がたちまち駆歩になって、車罔は石に触れて火花を散らした。ツァウォツキイは車の小さい穴から覗いて見た。馬車は爪先下りの広い道を、谷底に向って走っている。谷底・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・能の役者は足を水平にしたまま擦って前に出し、踏みしめる場所まで動かしてから急に爪先をあげてパタッと伏せる。この動作は人の自然な歩き方を二つの運動に分解してその一々をきわ立てたものである。従って有機的な動き方を機械的な動き方に変質せしめたもの・・・ 和辻哲郎 「能面の様式」
出典:青空文庫