・・・――君もこの信玄袋を背負って帰るんだから、まあ幸福者だろうてんでね、ハハハ」 惣治にはおかしくもなかった。相変らずあんなことばかし言って、ふわふわしているのだろうという気がされて、袋から眼を反らした。その富貴長命という字が模様のように織・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ またこうも思った、見る見ないは別問題だ、てんであんな音が耳に入るようでそれが気になるようでそのために気をもむようではだめなんだ。もし真にわが一心をこの画幅とこの自然とに打ち込むなら大砲の音だって聞こえないだろうと。そこで画板にかじりつ・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・けれども元大先生からして自己流ですから弟子も皆な自己流で、ただむやみと吹くばかり、そのうち手が慣れて来れば、やれ誰が巧いとか拙いとかてんでに評判をし合って皆なで天狗になったのでございます。私の性質でありましょうか、私だけは若い者の中でも別段・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ てんでんにつつみをしょってかけ出した人も、やがて往来が人一ぱいで動きがとれなくなり、仕方なしに荷をほうり出す、むりにせおってつきぬけようとした人も、その背中の荷物へ火の子がとんでもえついたりするので、つまりは同じく空手のまま、やっとく・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・私は、その翌年の春、大学を卒業する筈になっていたのだが、試験には一つも出席せず、卒業論文も提出せず、てんで卒業の見込みの無い事が、田舎の長兄に見破られ、神田の、兄の定宿に呼びつけられて、それこそ目の玉が飛び出る程に激しく叱られていたのである・・・ 太宰治 「一燈」
・・・ 私は自分が小説を書く事に於いては、昔から今まで、からっきし、まったく、てんで自信が無くて生きて来たが、しかし、ひとの作品の鑑賞に於いては、それだけに於いては、ぐらつく事なく、はっきり自信を持ちつづけて来たつもりなのである。 私はそ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・それ以来、私は、てんで女というものを信用しなくなりました。うちの女房なんか、あんな薄汚い婆でも、あれで案外、ほかに男をこしらえているかも知れない。いや、それは本当に、わからないものですよ。」と笑わずに言って、次のように田舎の秘話を語り聞かせ・・・ 太宰治 「嘘」
・・・そうして案内記などにはてんでかまわないで飛び出して行く。そうして自分の足と目で自由に気に向くままに歩き回り見て回る。この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる名所旧跡などのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまっ・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・多数の人の血眼になっていきせき追っかけるいわゆる先端的前線などは、てんでかまわないような顔をしてのんきそうに骨董いじりをしているように見えていた。そうして思いもかけぬ間道を先くぐりして突然前哨の面前に顔を突き出して笑っているようなところがあ・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・もっとも戸外と言ってもただ庭をあちらから見たりこちらから見たり、あるいは二階か近所の屋根や木のこずえを見たところなど、もしこれがほんとうの画家ならば始めからてんで相手にしないようなものを、無理に拾い出し、切り取っては画布に塗り込むのであった・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
出典:青空文庫