・・・諸方の店頭には立て素見している人々もある。こういう向の雑書を猟ることは、尤も、相川の目的ではなかったが、ある店の前に立って見渡しているうちに、不図眼に付いたものがあった。何気なく取上げて、日に晒された表紙の塵埃を払って見る。紛も無い彼自身の・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・よっぽど濃密の関係で自分と他者と転倒しているくらいの場合に、いわば病的に自分が死ぬる。または極局身後の不名誉の苦痛というようなものを想像して自分が死ぬることもある。所詮同情の底にも自己はあるように思われてならない。こんな風で同情道徳の色彩も・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・息子戦死の報を聞くや、つと立って台所に行き、しゃっしゃっと米をといだという母親のぶざまと共に、この男の悲しみの顛倒した表現をも、苦笑してゆるしてもらいたい。 ずいぶんたくさん書くことを用意していた筈なのに、異様にこわばって、書けなくなっ・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・どこかで見たことのある顔と思っていたのであるが、これはたしかに、えはがきやの店頭で見たプーシュキンの顔なのであった。みずみずしい眉のうえに、老いつかれた深い皺が幾きれも刻まれてあったあのプーシュキンの死面なのである。 僕もしたたかに酔っ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。これは、あなたの文章ではない。きっと誰かに書かされた文章にちがいない。しかもあなたはそれをあらわに見せつけようと努・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・ついに貴重な紙を、どっさり汚して印刷され、私の愚作は天が下かくれも無きものとして店頭にさらされる。批評家は之を読んで嘲笑し、読者は呆れる。愚作家その襤褸の上に、更に一篇の醜作を附加し得た、というわけである。へまより出でて、へまに入るとは、ま・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・木の根に躓いて顛倒しそうになっても、にこりともせず、そのまま、つんのめるような姿勢のままで、走りつづけた。いつもは、こんな草原は、蛇がいそうな故を以て、絶対に避けて通ることにしているのであるが、いまは蛇に食い附かれたって構わぬ、どうせ直ぐに・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ひどく酔って、たちまち、私の頭上から巨大の竜巻が舞い上り、私の足は宙に浮き、ふわりふわりと雲霧の中を掻きわけて進むというあんばいで、そのうちに転倒し、 わたしゃ 売られて行くわいな と小声で呟き、起き上って、また転倒し、世界が自・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・私だけでも落ちついて、立派な指図をしたいと思ったのだが、やはり私は、あまりの事に顛倒し、狼狽し、おろおろしてしまって、かえってHたちに軽蔑されたくらいであった。何も出来なかった。そのうちに洋画家は、だんだん逃腰になった。私は、苦しい中でも、・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・たしかに私は、あの、悠然と顛倒していた組に、ちがいなかった。江戸の小咄にも、あるではないか。富籤が当って、一家狂喜している様を、あるじ、あさましがり、何ほどのこともないさ、たかが千両、どれ銭湯へでも行って、のんびりして来ようか、と言い澄まし・・・ 太宰治 「春の盗賊」
出典:青空文庫