・・・「ふみ江ちゃんなんかの仕事は、とかく山かんだから困るよ。どうせ人の厄介にならないでやろうというのなら、もっと何とかいうのを見たてるがいい。あんな吝ったれな百姓なんかしかたがないじゃないか。だから財産はなくても、ちゃんと独立のできる男でな・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・敢えて絵空事なんぞと言う勿れ。とかくに芝居を芝居、画を画とのみして、それらの芸術的情趣は非常な奢侈贅沢に非ざれば決して日常生活中には味われぬもののように独断している人たちは、容易に首肯しないかも知れないが、便所によって下町風な女姿が一層の嬌・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 兎角する中議論はさて措き、如何に痩我慢の強い我輩も悠然としてカッフェーのテーブルには坐っていられないようになった。東京の新聞紙が挙って僕のカッフェーに通うのは女給仕人お民のためだという事を報道するや、以前お民をライオンから連出して大阪・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・あたりは高座で噺家がしゃべる通り、ぐるぐるぐるぐる廻っていて、本所だか、深川だか、処は更に分らぬが、わたくしはとかくする中、何かにつまずきどしんと横倒れに転び、やっとの事娘に抱き起された。見ればおあつらい通りに下駄の鼻緒が切れている。道端に・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・心許さぬ隠士は去るなという。とかくして二日を経たり。三日目の朝、われと隠士の眠覚めて、病む人の顔色の、今朝如何あらんと臥所を窺えば――在らず。剣の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追い、われは罪を追うとある」「逃れしか」と父は聞き、・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・細面ながら力身をもち、鼻がすッきりと高く、きッと締ッた口尻の愛嬌は靨かとも見紛われる。とかく柔弱たがる金縁の眼鏡も厭味に見えず、男の眼にも男らしい男振りであるから、遊女なぞにはわけて好かれそうである。 吉里が入ッて来た時、二客ともその顔・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
学者安心論 店子いわく、向長屋の家主は大量なれども、我が大家の如きは古今無類の不通ものなりと。区長いわく、隣村の小前はいずれも従順なれども、我が区内の者はとかくに心得方よろしからず、と。主人は以前の婢僕を誉め、・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・一事に心を籠め、二十五歳の年、初めて江戸に出でたる以来、時々貝原翁の女大学を繙き自から略評を記したるもの幾冊の多きに及べる程にて、其腹稿は既に幾十年の昔に成りたれども、当時の社会を見れば世間一般の気風兎角落付かず、恰も物に狂する如くにして、・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・けれども天上の舟というような理想的の形容は写実には禁物だから外の事を考えたがとかくその感じが離れぬ。やがて「酒載せてただよふ舟の月見かな」と出来た。これがその時はいくらか句になって居るように思われて、満足はしないが、これに定みょうかとも思う・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ 昔から躾というと、とかく行儀作法、折りかがみのキチンとしたことを、躾がよいといいならわして来ました。しかし、今日の生活は遑しく、変化が激しく、混んだ電車一つに乗るにしても、実際には昔風の躾とちがった事情がおこって来ています。しとや・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
出典:青空文庫