・・・ みずから時計を出してみて、「道理だ」という顔をして、そのままポケットに収めた。 「何時です?」 「二時十五分」 二人は黙って立っている。 苦痛がまた押し寄せてきた。唸り声、叫び声が堪え難い悲鳴に続く。 「気の毒だナ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・またたとえば教授の出勤時刻をしらせる時計の音が何度も出て来る。教場の光景も初めと終わりに現われそれが皆それぞれ全く変わった主人公の心境の背景として現われるのである。同じ女の絵はがきでも初めは生徒の手から没収したのを後には自分でお客に売り歩く・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・鉄の門の内側は広大な熊本煙草専売局工場の構内がみえ、時計台のある中央の建物へつづく砂利道は、まだつよい夏のひざしにくるめいていて、左右には赤煉瓦の建物がいくつとなく胸を反らしている。―― いつものように三吉は、熊本城の石垣に沿うてながい・・・ 徳永直 「白い道」
・・・朝夕の秋風身にしみわたりて、上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 真夜中頃に、枕頭の違棚に据えてある、四角の紫檀製の枠に嵌め込まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀を象牙の箸で打つような音を立てて鳴った。夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒ましたら、時計はとくに鳴りやんだが、頭のなかはまだ鳴ってい・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・町の四辻に写真屋があり、その気象台のような硝子の家屋に、秋の日の青空が侘しげに映っていた。時計屋の店先には、眼鏡をかけた主人が坐って、黙って熱心に仕事をしていた。 街は人出で賑やかに雑鬧していた。そのくせ少しも物音がなく、閑雅にひっそり・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 蚊帳の中には四つになる彼の長男が、腐った飯粒見たいに体中から汗を出して、時計の針のようにグルグル廻って、眠っていた。かますの乾物のように、痩せて固まった彼の母は、寝苦しいものと見えて、時々溜息をついていた。 彼は、暑さにジタバ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にもやや雑談の途断れる時分となッた。 廊下には上草履の音がさびれ、台の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・アラバステル石の時計がある。壁に塗り込んだ煖炉の上に燭台が載せてある。 ピエエル・オオビュルナンはこんな光景を再び目の前に浮ばせてみた。この男はそう云う昔馴染の影像を思い浮べて、それをわざとあくまで霊の目に眺めさせる。そうして置けば、そ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・たらちねの花見の留守や時計見る 内の者の遊山も二年越しに出来たので、予に取っても病苦の中のせめてもの慰みであった。彼らの楽みは即ち予の楽みである。○二、三年前に不折が使い古しの絵具を貰って、寝て居りながら枕元にある活花盆栽などの・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
出典:青空文庫