・・・只宅にばかり居まして伎の事のみを考えて居りますから貯えとてもありません。お大名から呼びに来ても往きません。贔屓のお屋敷から迎いを受けても参りません。其の癖随分贅沢を致しますから段々貧に迫りますので、御新造が心配をいたします。なれども当人は平・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・三分の一に当るほども自分の仕事をなし得ず、せめて煩わなかっただけでもありがたいと思えと人に言われて、僅かに慰めるほどの日を送って来たが、花はその間に二日休んだだけで、垣のどこかに眸を見開かないという朝とてもなかった。今朝も、わたしの家では、・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・それも、すっかりマホガニイの木でこしらえて、銅の釘で打ちつけて、銅の板でくるんだ、丈夫な船でないと、とても向うまでいく間持ちません。」と馬は言いました。 ウイリイは王さまのところへ行って、そういう船をこしらえていただくようにおたのみしま・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・「あのおそろしい旅をもう一度ですか。とてもとても。私は海の中にはいるほうがまだましだと思う」 とおかあさんは答えましたが、 やはり子どもは、「お家に行きたい」 と言い張りました。 おかあさんは立ち上がりました。 ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇う鬼の面であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・苦しくってとても歩けんから、鞍山站まで乗せていってくれと頼んだ。すると彼奴め、兵を乗せる車ではない、歩兵が車に乗るという法があるかとどなった。病気だ、ご覧の通りの病気で、脚気をわずらっている。鞍山站の先まで行けば隊がいるに相違ない。武士は相・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ アインシュタインは「芸術から受けるような精神的幸福は他の方面からはとても得られないものだ」と人に話したそうである。ともかくも彼は芸術を馬鹿にしない種類の科学者である。アインシュタインの芸術方面における趣味の中で最も顕著なものは音楽であ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・お絹ちゃんなんかには、こんな商売はとてもだめだ」「けど女のする商売といえば、ほかに何にもないでしょう」「さあね」 お絹はやがて、風呂の火を見に立っていった。 風呂はめったに立たなかった。綺麗好きなお絹は人にお湯を汚されるのを・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よくしてくれた。大柄な子で、頬っぺたがブラさがるように肥っている。つぶらな眼と濃い眉毛を持っていて、口数はすくない・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・日本のような貧乏な国ではいかに思想上価値があるからとてもしワグナアの如き楽劇一曲をやや完全に演ぜんなぞと思立たば米や塩にまで重税を課して人民どもに塗炭の苦しみをさせねばならぬような事が起るかも知れぬ。しかしそれはまずそれとして何もそんなに心・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫