・・・千七百八年チェイン・ロウが出来てより以来幾多の主人を迎え幾多の主人を送ったかは知らぬがとにかく今日まで昔のままで残っている。カーライルの歿後は有志家の発起で彼の生前使用したる器物調度図書典籍を蒐めてこれを各室に按排し好事のものにはいつでも縦・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・私は今これらの議論に入らない。とにかく、カント哲学においては、先験感覚論の始にいっている如き、我々の自己が外から動かされるという如き主客の対立、相互限定ということが根柢にあり、そこに主語的論理の考え方を脱していない。いわゆる物自体の難問も、・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ 余事はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・それとも腹ばいになるのか。とにかく、船の上から軽く糸をあやつっていると、タコが来た気配は手にこたえる。そこで、サーッと引くと、タコはカギに引っかかってあがって来るのである。この引きどきがコツで、あやまると逃がしてしまうから、やはり腕がいるの・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・人が何を言ッたのか。とにかく人の声がしたので、善吉はびッくりして起き上ッて、じッとその人を見た。「おほほほほほ。善さん、どうなすッたんですよ、まアそんな顔をなすッてさ。さアあちらへ参りましょう」「お熊どんなのか。私しゃ今何か言ッてや・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・忘れてしまった。とにかくその青金剛石はおれが持っている。世界に二つとない正真正銘の青金剛石だ。世界中捜しても見附からないはずだ。乞食の靴の中に這入っている。誰にだって分からなかろう。誰にだってなあ。ははは。何百万と云う貨物が靴の中にあるのだ・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・その罰の当否はしばらく擱き、とにかくに日本国において、学者と名づくる人物が獄屋に入りたるという事柄は、決して美談に非ず。窃盗博徒といえども、これを捕縛してもらさざるは、法律上において称すべき事なれども、その囚徒が獄内に充満するは、祝すべきに・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・事によったら馬鹿な下女奴が、奥へ通さずにしまったのではないかしら。とにかくまあ、待っているとしよう。や、来たな。」最後の一句は廊下に足音が聞えたから言ったのである。その足音はたしかに硝子戸に近づいて来る。オオビュルナンは覚えず居ずまいを直し・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・何升食ったか自分にもわからぬがとにかくそれがためにその日は六里ばかりしか歩けなかった。寐覚の里へ来て名物の蕎麦を勧められたが、蕎麦などを食う腹はなかった。もとよりこの日は一粒の昼飯も食わなかったのである。木曾の桑の実は寐覚蕎麦より旨い名物で・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・すると父がまたしばらくだまっていたがとにかくもいちど相談するからと云ってあとはいろいろ稲の種類のことだのふだんきかないようなことまでぼくにきいた。ぼくはけれども気持ちがさっぱりした。五月十三日 今日学校から帰って田に行ってみたら・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫