一 十一月に入ると、北満は、大地が凍結を始める。 占領した支那家屋が臨時の営舎だった。毛皮の防寒胴着をきてもまだ、刺すような寒気が肌を襲う。 一等兵、和田の属する中隊は、二週間前、四平街を出発し・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・ような大腹中の人には、馬琴の小説はイヤに偏屈で、隅から隅まで尺度を当ててタチモノ庖丁で裁ちきったようなのが面白くなくも見えましょうが、それはそれとして置いて、馬琴の大手腕大精力と、それから強烈な自己の道義心と混淆化合してしまった芸術上の意見・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・ありたけの執心をかきむしられ何の小春が、必ずと畳みかけてぬしからそもじへ口移しの酒が媒妁それなりけりの寝乱れ髪を口さがないが習いの土地なれば小春はお染の母を学んで風呂のあがり場から早くも聞き伝えた緊急動議あなたはやと千古不変万世不朽の胸づく・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・せいぜい華やかにやるがいい、と今は全く道義を越えて、目前の異様な戦慄の光景をむさぼるように見つめていました。誰も見た事の無いものを私はいま見ている、このプライド。やがてこれを如実に描写できる、この仕合せ。ああ、この男は、恐怖よりも歓喜を、五・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・相手は、私とその夜はじめてカフェで落ち合ったばかりの、犬の毛皮の胴着をつけた若い百姓であった。私はその男の酒を盗んだのである。それが動機であった。 私は北方の城下まちの高等学校の生徒である。遊ぶことが好きなのである。けれども金銭には割に・・・ 太宰治 「逆行」
・・・んなつまらない事はない、一つだけでいい、何か楽しくなつかしい思い出になる言動を示してくれ、どうか、わかれ際に、かなしい声で津軽の民謡か何か歌って私を涙ぐませてくれという願望が、彼の歌をやらかそうという動議に依ってむらむらと胸中に湧き起って来・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・米寿の祝いに赤い胴着を着せられた老翁の姿を思い出した。今の此のむずかしい世の中に、何一つ積極的なお手伝いも出来ず、文名さえも一向に挙らず、十年一日の如く、ちびた下駄をはいて、阿佐ヶ谷を徘徊している。きょうはまた、念入りに、赤い着物などを召し・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・めだかの模様の襦袢に慈姑の模様の綿入れ胴衣を重ねて着ている太郎は、はだしのままで村の馬糞だらけの砂利道を東へ歩いた。ねむたげに眼を半分とじて小さい息をせわしなく吐きながら歩いた。 翌る朝、村は騒動であった。三歳の太郎が村からたっぷり一里・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・上衣の胴着の下端の環が小舟の真中に腰を入れる穴の円枠にぴったり嵌まって海水が舟中へ這入らないようにしてあるのは巧妙である。命懸けの智恵の産物である。 これなども見れば見るだけ利口になる映画であろう。 二 ロス対マクラー・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・創作とは空想と同義ではない。題材の取り扱いの上に作者の独創があるか無いかが問題になるのである。ゲーテの「イタリア紀行」は創作であり、そこらの三文小説は小説ではないことは事新しく言うまでもないことである。 こういうふうに考えて来るといわゆ・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
出典:青空文庫