・・・「アメリカさ、太平洋の真ン中にあるよ」 フーン、と私は返辞する。地図で習ったことを思いだすが、太平洋がどれくらい広くて、ハワイという島がどれくらい大きいのか想像つかないからだった。「どうして日本に戻ってきたの?」「日本語を勉・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・父にはどうして、風に吠え、雨に泣き、夜を包む老樹の姿が恐くないのであろう。角張った父の顔が、時としては恐しい松の瘤よりも猶空恐しく思われた事があった。 或る夜、屋敷へ盗棒が這入って、母の小袖四五点を盗んで行った。翌朝出入の鳶の者や、大工・・・ 永井荷風 「狐」
・・・「私には――認識した御本人でなくては」と団扇のふさを繊い指に巻きつける。「夢にすれば、すぐに活きる」と例の髯が無造作に答える。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語り出そうとする時、蚊遣火が消えて、暗きに潜めるがつと出でて頸筋にあたりをちく・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・方向観念の錯誤から、すぐ目の前にある門の入口が、どうしても見つからなかったのである。家人は私が、まさしく狐に化かされたのだと言った。狐に化かされるという状態は、つまり心理学者のいう三半規管の疾病であるのだろう。なぜなら学者の説によれば、方角・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 安岡は、次から次へと深谷のことについて考えたが、どうしても、彼が恋人を持っているとは考えられなかった。それなら……盗癖でもあるのだろうか? だが、深谷は級友中でも有数の資産家の息子であった。それにしても盗癖は違う。いくら不自由をし・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・家君さんが気抜けのようになッたと言うのに、幼稚い弟はあるし、妹はあるし、お前さんも知ッてる通り母君が死去のだから、どうしても平田が帰郷ッて、一家の仕法をつけなければならないんだ。平田も可哀そうなわけさ」「平田さんがお帰郷なさると、皆さん・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そうかと思えばある時己はどうしてはいったともなく、その戸の中にはいっていた事もある。しかしその時は己の心が何物かに縛られていて、深い感じは起さずにしまった。そういう時は見ても見えず、聞いても聞えず、心は何処か余所になってしまっていて、貴い熱・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・しそのエライという人も必然の結果で豪らい人に成ったとすれば、ちょうど人間世界にエライ人とエラクナイ人とあるのは、植物に高い木と低い木とがあり、動物に美しい鳥と醜い鳥とがあるのと同じことになってしまう。どうしても僕は小供の時分から今に至るまで・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ぼくはもうどうしていいかわからない。あれぐらい昨日までしっかりしていたのに、明方の烈しい雷雨からさっきまでにほとんど半分倒れてしまった。喜作のもこっそり行ってみたけれどもやっぱり倒れた。いまもまだ降っている。父はわらって大丈夫大丈夫だと云う・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・愛という感情が真実わたしたちの心に働いているとき、どうして漫画のように肥った両手をあわせて膝をつき、存在しもしない何かに向って上眼をつかっていられましょう。この社会にあっては条理にあわないことを、ないようにしてゆくこと。憎むべきものを凜然と・・・ 宮本百合子 「愛」
出典:青空文庫