・・・ こう言い乍ら、自分は十銭銀貨一つ取出して、それを男の前に置いて、「僕の家ばかりじゃない、何処の家へ行っても左様だろうと思うんだ。ただ呉れろと言われて快く出すものは無い。是から君が東京迄も行こうというのに、そんな方法で旅が出来るもの・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・自分に問をかけても見ました、が、合点の行く答えは、何処からも来ません。 或る満月の晩おそく、彼女は静かに部屋の戸を開けて、こわごわ戸外を覗いて見ました。淋しいスバーと同じように、彼女自身満月の自然は、凝っと眠った地上を見下しています。ス・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・やあ、やあ、めかして何処へ行くのだと、既に酔っぱらっている友人達は、私をからかいました。私は気弱く狼狽して、いや何処ということもないんだけど、君たちも、行かないかね、と心にも無い勧誘がふいと口から辷り出て、それからは騎虎の勢で、僕にね、五十・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 着物は何処かの小使のお古らしい小倉の上衣に、渋色染の股引は囚徒のかと思われる。一体に無口らしいが通りがかりの漁師などが声をかけて行くと、オーと重い濁った返事をする。貧苦に沈んだ暗い声ではなくて勢いのある猛獣の吼声のようである。いつも恐・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・だが、何処を捜しても姿が見えねえ。……何でも秋山さんは深い水の底にあった、大きな木の株に挟まっていたそうでね、忰は首尾よく秋山さんを捜しあてたにゃ当てたけれど、体へ掴まられたんで、どうにも恁にも足が取れなくなって了ったものなんだ。いくら泳ぎ・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・暗い処に数十日をぶち込まれた筈の彼等の、顔色の何処にそんな憂色があるか! 欣然と、恰も、凱旋した兵卒のようではないか! ……迎えるものも、迎えらるるものも、この晴れ晴れした哄笑はどうだ 暖かい、冬の朝暾を映して、若い力の裡に動いている何・・・ 徳永直 「眼」
・・・ これは子供の時から覚え初めた奇癖である。何処ということなく、道を歩いてふと小流れに会えば、何のわけとも知らずその源委がたずねて見たくなるのだ。来年は七十だというのにこの癖はまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい。雀百まで躍るとか・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・死ぬ迄も依然として身体は丈夫であったけれど何処となく悄れ切って見えた。それは瞽女のお石がふっつりと村へ姿を見せなくなったからであった。彼がお石と馴染んだのは足かけもう二十年にもなる。秋のマチというと一度必ず隊伍を組んだ瞽女の群が村へ来る。其・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして何処へとも、とうなずく……」と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬を抑えながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返した・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・エスさんも、その後何処に行かれたか。その頃私より少し年上であったと思うが、今も何処かに健かにしておられるか知ら。 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
出典:青空文庫