・・・ 王女は、しまいに立派な寝室へつれて行って、「ここにある寝台のどれへなりとおやすみなさい。」と言いました。ウイリイはそれをことわって、門のそばへいって犬と一しょに寝ました。 あくる朝、ウイリイは王女のところへ行って、「どうぞ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・いままでだって、私たち夫婦は、あんたのために、どれだけ苦労をさせられて来たか、わからねえのだ。それなのに、こんな、今夜のような情ねえ事をし出かしてくれる。先生、私は見そこないましたよ」「ゆすりだ」と夫は、威たけ高に言うのですが、その声は・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・川閣と何事か昔を語り合い、帆影点々といそがしげに江上を往来し、更にすすめば大別山の高峰眼下にあり、麓には水漫々の月湖ひろがり、更に北方には漢水蜿蜒と天際に流れ、東洋のヴェニス一眸の中に収り、「わが郷関何れの処ぞ是なる、煙波江上、人をして愁え・・・ 太宰治 「竹青」
・・・親族一同はポルジイに二つの道を示して、そのどれかを行わなくてはならないことにした。その一は軍職を罷めて、耕作地の経営に長じているという噂のあるおじさんのいる、スラヴ領の荘園に行って、農業を研究するのである。ポルジイはこれを承って、乱暴にも、・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・中学校時代の日記は、空想たくさんで、どれが本当かうそかわからない。戯談に書いたり、のんきに戯れたりしていることばかりである。三十四五年――七八年代の青年を描こうと心がけた私は、かなりに種々なことを調べなければならなかった。そのころの青年でも・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・彼の会話の断片を基にしたジャーナリストの評論や、またそれの下手な受売りにどれだけの信用が措けるかは疑問である。ただ煙の上がる処に火があるというあまりあてにならない非科学的法則を頼みにして、少しばかりの材料をここに紹介する。 彼の人間に対・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・私がもし古美術の研究家というような道楽をでももっていたら、煩いほど残存している寺々の建築や、そこにしまわれてある絵画や彫刻によって、どれだけ慰められ、得をしたかしれなかったが――もちろん私もそういう趣味はないことはないので、それらの宝蔵を瞥・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・地図で習ったことを思いだすが、太平洋がどれくらい広くて、ハワイという島がどれくらい大きいのか想像つかないからだった。「どうして日本に戻ってきたの?」「日本語を勉強するためにさ」「ヘェ、じゃハワイでは何語を教わっていたんだい」・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・表の河岸通には日暮と共に吹起る空ッ風の音が聞え出すと、妾宅の障子はどれが動くとも知れず、ガタリガタリと妙に気力の抜けた陰気な音を響かす。その度々に寒さはぞくぞく襟元へ浸み入る。勝手の方では、いっも居眠りしている下女が、またしても皿小鉢を破し・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・横町は真直なようでも不規則に迂曲っていて、片側に続いた倉庫の戸口からは何れも裏手の桟橋から下る堀割の水の面が丁度洞穴の中から外を覗いたように、暗い倉の中を透してギラギラ輝って見える。荒布の前掛を締めた荷揚の人足が水に臨んだ倉の戸口に蹲踞んで・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫