・・・ I don't know ですな。」 そう答えた店員は、上り框にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。 その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・元よりそう云う苦しみの中にも、先生は絶えず悠然たる態度を示しながら、あの紫の襟飾とあの山高帽とに身を固めて、ドン・キホオテよりも勇ましく、不退転の訳読を続けて行った。しかし先生の眼の中には、それでもなお時として、先生の教授を受ける生徒たちの・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・誰ぞかわんなはらねえかって、艫からドンと飛下りただ。 船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、陸へ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。」 女房は打頷いた襟さみしく、乳の張る胸をおさえ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 扉を押すと、反動でドンと閉ったあとは、もの音もしない。正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の諸脚の真黒な筋のごとく、二ヶ処に洞穴をふんで、冷く、不気味に突立っていたのである。 ――まさか、そんな事はあるまい・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 塩どころじゃない、百日紅の樹を前にした、社務所と別な住居から、よちよち、臀を横に振って、肥った色白な大円髷が、夢中で駈けて来て、一子の水垢離を留めようとして、身を楯に逸るのを、仰向けに、ドンと蹴倒いて、「汚れものが、退りおれ。――・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ ウオオオオオ 鉄づくりの門の柱の、やがて平地と同じに埋まった真中を、犬は山を乗るように入ります。私は坂を越すように続きました。 ドンと鳴って、犬の頭突きに、扉が開いた。 余りの嬉しさに、雪に一度手を支えて、鎮守の方を遥拝し・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ このとき、ドン、ドン、と、外の方で太鼓の音がしました。「政ちゃん、りんごをさるにおやりよ。」と、勇ちゃんが、入り口から、のぞいて、いいました。政ちゃんは、赤いりんごを持って、かけ出してゆきました。政ちゃんは、赤いりんごをさるにやり・・・ 小川未明 「政ちゃんと赤いりんご」
・・・そして、博奕打ちに特有の商人コートに草履ばきという服装の男を見ると、いきなりドンと突き当り、相手が彼の痩せた体をなめて掛ってくると、鼻血が出るまで撲り合った。 ある日、そんな喧嘩のとき胸を突かれて、げッと血を吐いた。新聞社にいたころから・・・ 織田作之助 「雨」
・・・噂の種にもならないのだが、ドン百姓の源作が、息子を、市の学校へやると云うことが、村の人々の好奇心をそゝった。 源作の嚊の、おきのは、隣家へ風呂を貰いに行ったり、念仏に参ったりすると、「お前とこの、子供は、まあ、中学校へやるんじゃない・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・「宇平ドンにゃ、今、宇一がそこの小屋へ来とるが、よその豚と間違うせに放すまい、云いよるが……。」と、親爺は云った。 健二は老いて萎びた父の方を見た。残飯桶が重そうだった。「宇一は、だいぶ方々へ放さんように云うてまわりよるらしい。・・・ 黒島伝治 「豚群」
出典:青空文庫