・・・人事の変遷、長き歳月を経る間には、子孫相続の主義はただに口実として用いらるるのみならず、早く既にその主義をも忘却し、一男にして衆婦人に接するは、あたかも男子に授けられたる特典の姿となり、以て人倫不取締の今日に至りしは、国民一家の不幸に止まら・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・更けたりという程にはあらず。長き黒き天鵞絨の上着を着し、顔の周囲に白きレエスを付けたる黒き天鵞絨の帽子を冠りおる。白き細き指にレエスの付きたる白き絹の紛※を持ちおる。母は静に扉を開きて出で、静に一間の中母。この部屋の空気を呼吸すれば・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・しかるに彼に一つの癖ありてある形容詞に限り長きを厭わず、しばしばこれを句尾に置く。つゝじ咲て石うつしたる嬉しさよ更衣八瀬の里人ゆかしさよ顔白き子のうれしさよ枕蚊帳五月雨大井越えたるかしこさよ夏川を越す嬉しさよ手に草履・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・かような獲物はとてもわが郷里などでは得られる者ではないので、その分量の多きことにおいて、その茎の長きことにおいて、彼は頻りに誇って居る。この短い土筆は、始めのうち取ったので秉さんに笑われたのである、この長い土筆は帰りがけに急いで取ったので、・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・航海中の無聊は誰も知って居るが、自分のは無聊に心配が加わって居るので、ただ早く日本へ着けば善いと思うばかりで、永き夜の暮し方に困った。時々上の桟敷で茶をこぼす、それが板の隙間から漏りて下に寝て居る人の頭の辺へポチポチと落ちて来る、下の人が大・・・ 正岡子規 「病」
・・・黒き衣の陰に大鎌は閃きて世を嘲り見すかしたる様にうち笑む死の影は長き衣を引きて足音はなし只あやしき空気の震動は重苦しく迫りて塵は働きを止めかたずのみて 其の成り行きを見守る。大鎌の奇怪なる角・・・ 宮本百合子 「片すみにかがむ死の影」
・・・又〔欧文約十二語抹消〕「天才とは永き忍耐である」等、一寸洒落た文句があって、これはあなたも目をおとめになりそうであるから、お互のクリスマスプレゼントマガイにいたしましょうか。本年末は島田、光井の方へ毛布二枚つづきお送りしたのみならず、自身の・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・す鏡のにくらしき 片頬ふくれしかほをのぞけば ひな勇を思ひ出してソトなでゝ涙ぐみけり青貝の 螺鈿の小箱光る悲しみ紫のふくさに包み花道で もらひし小箱今はかたみよ振長き京の舞子の口紅の うつりし扇な・・・ 宮本百合子 「短歌習作」
・・・この間長きときは三十分もあらん。あたりの茶店より茶菓子などもて来れど、飲食わむとする人なし。下りになりてより霧深く、背後より吹く風寒く、忽夏を忘れぬ。されど頭のやましきことは前に比べて一層を加えたり。軽井沢停車場の前にて馬車はつ。恰も鈴鐸鳴・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・物暗き牢獄に鉄鎖のとなりつつ十数年の長きを「道義」のために平然として忍ぶ。荘厳なる心霊の発現である。兄弟は一人と死に二人と斃る。愛する同胞の可憐なる瞳より「生命」の光が今消え去らんとする一瞬にも彼らは互いに二間の距離を越えて見かわすのみであ・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫