上 日清戦争が始まった。「支那も昔は聖賢の教ありつる国」で、孔孟の生れた中華であったが、今は暴逆無道の野蛮国であるから、よろしく膺懲すべしという歌が流行った。月琴の師匠の家へ石が投げられた、明笛を吹く青年等は非国民として擲られた・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 私の胸の中では、毒蛇が鎌首を投げた。一歩一歩の足の痛みと、「今日からの生活の悩み」が、毒蛇をつッついたのだ。「おい、今んになって、口先で胡魔化そう、ったって駄目だよ。剥製の獣じゃあるめえし、傷口に、ただの綿だけ押し込んどいて、それ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・と、裲襠を引き摺ッたまま走り寄り、身を投げかけて男の肩を抱いた。「ははははは。門迷いをしちゃア困るぜ。何だ、さッきから二階の櫺子から覗いたり、店の格子に蟋蟀をきめたりしていたくせに」と、西宮は吉里の顔を見て笑ッている。 吉里はわざと・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・譬えば母とか恋人とかいうようないなくなってから年を経たものがまた帰って来たように、己の心の中に暖いような敬虔なような考が浮んで、己を少年の海に投げ入れる。子供の時、春の日和に立っていて体が浮いて空中を飛ぶようで、際限しも無いあくがれが胸に充・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・○ベースボールに要するもの はおよそ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生ならばなお善皮にて包みたる小球(直径二寸ばかりにして中は護謨、糸の類にて充実投者が投げたる球を打つべき木の棒(長さ四尺ばかりにして先の方やや太く手にて持つ処一尺四方ば・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・ お日様はもえる宝石のように東の空にかかり、あらんかぎりのかがやきを悲しむ母親の木と旅にでた子どもらとに投げておやりなさいました。 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・ 気味が悪いから鶏に投げてやると黄いコーチンが一口でたべて仕舞う。 又する事がなくなると、気がイライラして来る。 隣りの子供が三人大立廻りをして声をそろえて泣き出す。 私も一緒にああやって泣きたい。 声を出そうかと思って・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・秀麿が心からでなく、人に目潰しに何か投げ附けるように笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成しているのを、奥さんは本能的に知っているのである。 食事をしまって帰った時は、明方に薄曇のしていた空がすっかり晴れて、日光が・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 秋三は嘲弄した微笑を勘次に投げた。「ええか、頼んだぞ。」と彼は云うと、威勢好く表へ立った。 勘次は秋三の微笑から冷たい風のような寒さを感じた。彼は暫く庭の上を見詰めたまま動けなかった。「すまんこっちゃわ、えらい厄介かけての・・・ 横光利一 「南北」
・・・紙巻烟草に火を附けて見たが、その煙がなんともいえないほど厭になったので、窓から烟草を、遠くへ飛んで行くように投げ棄てた。外は色の白けた、なんということもない三月頃の野原である。谷間のように窪んだ所には、汚れた布団を敷いたように、雪が消え残っ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫