・・・ 神でも仏でも、尊い手をお延ばし下すって、早く引上げてやって頂かねば、見る中にも砂一粒ずつ地の下へ崩れてお米は貴方、旦那様。 奈落の底までも落ちて参りますような様子なのでございます。その上意地悪く、鼻めが沢井様へ入り込みますこと、毎・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 大波に漂う小舟は、宙天に揺上らるる時は、ただ波ばかり、白き黒き雲の一片をも見ず、奈落に揉落さるる時は、海底の巌の根なる藻の、紅き碧きをさえ見ると言います。 風の一息死ぬ、真空の一瞬時には、町も、屋根も、軒下の流も、その屋根を圧して・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・そして、しまいには、うす青い、黄昏の空にはかなく消えて、また低く岸を打つ波の音にさらわれて、暗い奈落へと沈んでゆくのでした。おじいさんは、自分の鳴らす、バイオリンの音に、自分からうっとりとして、時のたつのを忘れることもありました。 夏の・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・その感情は喉を詰らせるようになって来、身体からは平衝の感じがだんだん失われて来、もしそんな状態が長く続けば、そのある極点から、自分の身体は奈落のようなもののなかへ落ちてゆくのではないかと思われる。それも花火に仕掛けられた紙人形のように、身体・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・小露をどうなさるとそもやわたしが馴れそめの始終を冒頭に置いての責道具ハテわけもない濡衣椀の白魚もむしって食うそれがし鰈たりとも骨湯は頂かぬと往時権現様得意の逃支度冗談ではござりませぬとその夜冬吉が金輪奈落の底尽きぬ腹立ちただいまと小露が座敷・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・底のない墜落、無間奈落を知って居るか、加速度、加速度、流星と同じくらいのはやさで、落下しながらも、少年は背丈のび、暗黒の洞穴、どんどん落下しながら手さぐりの恋をして、落下の中途にて分娩、母乳、病い、老衰、いまわのきわの命、いっさい落下、死亡・・・ 太宰治 「創生記」
・・・身の毛もよだつ無間奈落だ。こいつをちらとでも覗いたら最後、ひとは一こともものを言えなくなる。筆を執っても原稿用紙の隅に自分の似顔画を落書したりなどするだけで、一字も書けない。それでいて、そのひとは世にも恐ろしい或るひとつの小説をこっそり企て・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・十万億土、奈落の底まで私は落ちた。洗っても、洗っても、私は、断じて昔の私ではない。一瞬間で、私はこんなに無残に落ちてしまった。夢のようだ。ああ、夢であってくれたら。いやいや、夢ではない。ゆきさんは、たしかにあのとき、はっと言葉を呑んでしまっ・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・無間奈落 押せども、ひけども、うごかぬ扉が、この世の中にある。地獄の門をさえ冷然とくぐったダンテもこの扉については、語るを避けた。余談 ここには、「鴎外と漱石」という題にて、鴎外の作品、なかなか正当に評価せら・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・同じ団体にはいってヘッベルの劇場の楽屋見学をしたときは、奈落へ入り込んでモーターで廻わす廻り舞台を下から仰いだり、風の音を出す器械を操縦させてもらったりした。音を出すのは器械だが、音を風音らしくするのはやはり人間の芸術らしいと思われた。・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
出典:青空文庫