・・・「おい、M!」 僕はいつかMより五六歩あとに歩いていた。「何だ?」「僕等ももう東京へ引き上げようか?」「うん、引き上げるのも悪くはないな。」 それからMは気軽そうにティッペラリイの口笛を吹きはじめた。・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・「戸沢さんは何だって云うんです?」「やっぱり十二指腸の潰瘍だそうだ。――心配はなかろうって云うんだが。」 賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。「しかしあしたは谷村博士に来て貰うように頼んで置いた。戸沢さんもそ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・B 何だい。もうその時の挨拶まで工夫してるのか。A まあさ。「とうとう飽きたね」と君に言うね。それは君に言うのだから可い。おれは其奴を自分には言いたくない。B 相不変厭な男だなあ、君は。A 厭な男さ。おれもそう思ってる。・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ ちょっと立どまって、大爺と口を利いた少いのが、続いて入りざまに、「じゃあ、何だぜ、お前さん方――ここで一休みするかわりに、湊じゃあ、どこにも寄らねえで、すぐに、汽船だよ、船だよ。」 銀鎖を引張って、パチンと言わせて、「出帆・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・二「何だ、もう帰ったのか。」「ええ、」「だってお気の毒様だと云うじゃないか。」「ほんとに性急でいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家を出る時はほんとに極りが悪くて……嫂さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」「僕だって平気なもんですか・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・と、お君のおきまり文句らしいのを聴くと、僕が西洋人なら僕の教えた片言を試みるのだろうと思われて、何だか厭な、小癪な娘だという考えが浮んだ。僕はいい加減に見つくろって出すように命じ、巻煙草をくわえて寝ころんだ。 まず海苔が出て、お君がちょ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ こうなると、人間というものは妙に引け身になるもので、いつまでも一所にいると、何だか人に怪まれそうで気が尤める。で、私は見たくもない寺や社や、名ある建物などあちこち見て廻ったが、そのうちに足は疲れる。それに大阪鮨六片でやっと空腹を凌いで・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ヒョロして、あの大きな体を三味線の上へ尻餅突いて、三味線の棹は折れる、清元の師匠はいい年して泣き出す、あの時の様子ったらなかったぜ、俺は今だに目に残ってる……だが、あんな元気のよかった父が死んだとは、何だか夢のようで本当にゃならねえ、一体何・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 五代は丹造のきょときょとした、眼付きの野卑な顔を見て、途端に使わぬ肚をきめたが、八回無駄足を踏ませた挙句、五時間待たせた手前もあって、二言三言口を利いてやる気になり、「――お前の志望はいったい何だ?」 と、きくと丹造はすかさず、・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫