・・・ 彼は、何だか、眼前が急に明るくなったように感じられた。腹心の、子飼の弟子ともいうべき子分達に、一人残らず背かれたことは、彼にとって此上ない淋しいことであった。川村にしても、高橋にしても、斎藤にしても、小野にしても、其他十数人の、彼を支・・・ 徳永直 「眼」
・・・「あれ」と一人が喫驚したようにいった。「どうした」「何だ」 罪を犯した彼等は等しく耳を欹てた。其一人は頻りに帯のあたりを探って居る。「何だ」「どうした」 他のものは又等しく折返して聞いた。「銭入どうかしっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・何と何だい」「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす鑿と、鑿を敲く槌と、それから爪を削る小刀と、爪を刳る妙なものと、それから……」「それから何があるかい」「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしい・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・「何だい」と私は急に怒鳴った。すると、私の声と同時に、給仕でも飛んで出て来るように、二人の男が飛んで出て来て私の両手を確りと掴んだ。「相手は三人だな」と、何と云うことなしに私は考えた。――こいつあ少々面倒だわい。どいつから先に蹴っ飛ばす・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 吉里は燭台煌々たる上の間を眩しそうに覗いて、「何だか悲アしくなるよ」と、覚えず腮を襟に入れる。「顔出しだけでもいいんですから、ちょいとあちらへおいでなすッて下さい」と、例のお熊は障子の外から声をかけた。「静かにしておくれ。お客・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・即ちこんな苦痛の中に住んでて、人生はどうなるだろう、人生の目的は何だろうなぞという問題に、思想上から自然に走ってゆく。実に苦しい。従ってゆっくりと其問題を研究する余裕がなく、ただ断腸の思ばかりしていた。腹に拠る所がない、ただ苦痛を免れん為の・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・けれども学校へ行っても何だか張合いがなかった。一年生はまだはいらないし三年生は居ない。居ないのでないもうこっちが三年生なのだが、あの挨拶を待ってそっと横眼で威張っている卑怯な上級生が居ないのだ。そこで何だか今まで頭をぶっつけた低い天井裏が無・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・けれどもそれが何だろう」あらゆるものを投げ出したものに貞操なんか何だ? そして石川という共働者との場合には逃げ出した彼女は、「もっともっと自由な女性を自分の中に自覚していた、たとえ肉体は腐ってもよかった。革命を裏切らず、卑怯者にならずに自分・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・ かれらは叫んだ、『何だ古狸!』 そこでかれはだれもかれを信ずるものがないのに失望してますます怒り、憤り、上気あがって、そしてこの一条を絶えず人に語った。 日が暮れかかった。帰路につくべき時になった。かれは近隣のもの三人と同・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・「こいつは運がいい。」と私は思った。しかし時間を勘定してみてやはり一時間ばかり待たなければならない事がわかると、私の心はまた元へ戻り始めた。「何だ、こんな事で埋め合わせをするのか、畜生め。」私は仕方なく三等待合室へはいって行った。見ると質朴・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫