・・・「復讐と云うものはこんなに苦い味のものか知ら」と、女房は土の上に倒れていながら考えた。そして無意識に唇を動かして、何か渋いものを味わったように頬をすぼめた。併し此場を立ち上がって、あの倒れている女学生の所へ行って見るとか、それを介抱して・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・裏切られ、ばかにされている事を知った刹那の、あの、つんのめされるような苦い墜落の味を御馳走された気持で、食堂の隅の椅子に、どかりと坐った。私と向い合って、熊本君も坐った。やや後れて少年佐伯が食堂の入口に姿を現したと思うと、いきなり、私のほう・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・こうなってはさすがのアインシュタインも苦い顔をしている事であろう。 我邦ではまだそれほどでもないが、それでも彼の名前は理学者以外の方面にも近頃だいぶ拡まって来たようである。そして彼の仕事の内容は分らないまでも、それが非常に重要なものであ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・そうだという返答をたしかめてから後に悠々と卓布一杯に散々楽書をし散らして、そうして苦い顔をしているオーバーを残してゆるゆる引上げたという話もある。 ドイツだとこれほど簡単に数字的に始末の出来る事が、我が駒込辺ではそう簡単でないようである・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。苦い真実を臆面なく諸君の前にさらけ出して、幸福な諸君にたとい一時間たりとも不快の念を与えたのは重々御詫を申し上・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・そうして苦い顔をしながら、医者に騙されて来て見たと云った。医者に騙されたという彼は、固より余を騙すつもりでこういう言葉を発したのである。彼の死ぬ時には、こういう言葉を考える余地すら余に与えられなかった。枕辺に坐って目礼をする一分時さえ許され・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・その秘密らしい背景の上に照り輝いて現われている美しい手足や、その謎めいた、甘いような苦いような口元や、その夢の重みを持っている瞼の飾やが、己に人生というものをどれだけ教えてくれたか。己の方からその中へ入れた程しきゃ出して見せてはくれなかった・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ 青い眼のくぼんだ誰が見ても不愉快な顔つきをした千世子は甘苦い様な臭剥を飲みながらこんな事を云った。ふだんにまして気むずかしい機嫌を取りそこねて女中が一日中びくびくして居なければならない様なのもその頃だった。 京子は毎日の様に来・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・などと笑いながら云うと肇はフット笑いかけても唇をつぼめて苦い顔をした。 母親はそんな事を不思議がって、 あの人は過去に暗い影を持って居るんじゃああるまいか。などと云ったけれども千世子には信じられない事だった。・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・ 背こそ仲平ほど低くないが、自分も痘痕があり、片目であった翁は、異性に対する苦い経験を嘗めている。識らぬ少女と見合いをして縁談を取りきめようなどということは自分にも不可能であったから、自分と同じ欠陥があって、しかも背の低い仲平がために、・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫