・・・涙で頬をぬらしながら、なお、その身内をせき上げるような熱い轟きを追って画面に見入っているひろ子の心の視野に、丁度その隊伍の消え去ろうとするかなたから、二重映しになって一人の和服姿の男が、風呂敷包みを下げ、草履ばきでこちらに向って歩いて来るの・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・すっかり病人扱いにし、涙でぬらし甘やかすだろう。それではマリアとして、どうせ短かい自分の命の価値を、自分が満足するようにつかうことさえできなくなる。それで病をかくした。その上、花のような容貌をしながら二十歳のマリアはすでに結核性の聾になりは・・・ 宮本百合子 「マリア・バシュキルツェフの日記」
・・・そして卒業後は自活のために非常に種々の職業を経験しつつ、現在では「エプロンの裾をぬらして台所にはいずり廻る仕事」をしてやっと食いつなぎながらも、猶創作の勉強を続けているという、文学のために思いきわまった一人の女の閲歴が書かれているのである。・・・ 宮本百合子 「見落されている急所」
・・・黒い東洋の髪をぬらしつつ漬って居るのは自分だ。湯槽の内にも日光は燦いた。時々、地下室の実験用犬の鳴く声が聞えた。 肝臓のために一週二度ずつ沐浴が出来る。何と楽しい課目! 生れて始めて凹んですき間の出来た股を 湯のなかで自分は愛撫した・・・ 宮本百合子 「無題(七)」
・・・けれども、棺をいよいよ閉じるという時、私は自分を制せられなくなって涙で顔じゅうを濡らし激しく慟哭した。可愛い、可愛いお父様。その言葉が思わず途切れ途切れに私の唇からほとばしった。どうも御苦労様でした、そういう感動が私の体じゅうを震わすのであ・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・ 彼女は漸く起き上ると、青ざめた頬を涙で濡らしながら歩き出した。彼女の長い裳裾は、彼女の苦痛な足跡を示しつつ緞帳の下から憂鬱に繰り出されて曳かれていった。 ナポレオンの部屋の重々しい緞帳は、そのまま湿った旗のように明方まで動かなかっ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫