・・・一週間ほどするうちに、それまで、全く枯野だった草原が、すっかり青くなって、草は萌え、木は枝を伸し、鵞や鶩が、そここゝを這い廻りだした。夏、彼等は、歩兵隊と共に、露支国境の近くへ移って行った。十月には赤衛軍との衝突があった。彼等は、装甲列車で・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・と古えの賤の苧環繰り返して、さすがに今更今昔の感に堪えざるもののごとく我れと我が額に手を加えたが、すぐにその手を伸して更に一盃を傾けた。「そうこうするうち次郎坊の方をふとした過失で毀してしまった。アア、二箇揃っていたものをいかに過失・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・男は臂を伸してその頸にかけ、我を忘れたるごとく抱き締めつ、「ムム、ありがてえ、アッハハハハ、ナニ、冗談だあナ。べらぼうめえ、貧乏したって誰が馬鹿なことをしてなるものか。ああ明日の富籤に当りてえナ、千両取れりゃあ気息がつけらあ。エエ酒が無・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・そんな親しい人ならば、どんな貧しい肴でも恥ずかしくないし、家の者に聞かせたくないような話題も出る筈はないのであるから、私は大威張りで実に、たのしく、それこそ痛飲できるのであるが、そんな好機会は、二月に一度くらいのもので、あとは、たいてい突然・・・ 太宰治 「酒ぎらい」
・・・そう言って微笑む郵便屋の鼻の先には、雨のしずくが光っていた。二十二、三の頬の赤い青年である。可愛い顔をしていた。「あなたは、青木大蔵さん。そうですね。」「ええ、そうです。」青木大蔵というのは、私の、本来の戸籍名である。「似ていま・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・人の話に依りますと、ユーゴー、バルザックほどの大家でも、すべて女性の保護と慰藉のおかげで、数多い傑作をものしたのだそうです。私も貴下を、及ばずながらお助けする事に覚悟をきめました。どうか、しっかりやって下さい。時々お手紙を差し上げます。貴下・・・ 太宰治 「恥」
・・・野には明るい日が照り、秋草が咲き、里川が静かに流れ、角のうどん屋では、かみさんがせっせとうどんを伸していた。 私は最初に、かれのつとめていた学校をたずねた。かれの宿直をした室、いっしょに教鞭を取った人たち、校長、それからオルガンの前にも・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
およそありの儘に思う情を言顕わし得る者は知らず/\いと巧妙なる文をものして自然に美辞の法に称うと士班釵の翁はいいけり真なるかな此の言葉や此のごろ詼談師三遊亭の叟が口演せる牡丹灯籠となん呼做したる仮作譚を速記という法を用いて・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・ここへは一団の政治界や経済界に羽をのして歩くようなえらい人達は来ないようであった。そうかと云ってあまり騒々しいぷろれたがり屋の酒呑み客も来なかった。来ている人は、もちろんどういう人か分らないが、何かしら少なくも自分と同じ世界のどこかに住んで・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・背景にはヴェスヴィオが紅の炎を吐き、前景の崖の上にはイタリア笠松が羽をのしていた。一九一〇年の元旦にこの火山に登って湾を見おろした時には、やはりこの絵が眼前の実景の上に投射され、また同時に鴎外の「即興詩人」の場面がまざまざと映写されたのであ・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
出典:青空文庫