・・・日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。 戸は直ぐに開きました。が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、も・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・私はまた何の訳もなく砂の方に飛び上りました。そしてまた海の中にはいって行きました。如何してもじっとして待っていることが出来ないのです。 妹の頭は幾度も水の中に沈みました。時には沈み切りに沈んだのかと思うほど長く現われて来ませんでした。若・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・また時として登りかけた坂から、腰に縄をつけられて後ざまに引き下されるようにも思われた。そうして、一つ処にいてだんだんそこから動かれなくなるような気がしてくると、私はほとんど何の理由なしに自分で自分の境遇そのものに非常な力を出して反抗を企てた・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・蘆の根から這い上がって、其処らへ樹上りをする……性が魚だからね、あまり高くは不可ません。猫柳の枝なぞに、ちょんと留まって澄ましている。人の跫音がするとね、ひっそりと、飛んで隠れるんです……この土手の名物だよ。……劫の経た奴は鳴くとさ」「・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 僕は上りもせず腰もかけず、しばらく無言で立っていた。ようやくと、「民さんのお墓に参りにきました」 切なる様は目に余ったと見え、四人とも口がきけなくなってしまった。……やがてお父さんが、「それでもまア一寸御飯を済して往ったら・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「三四尺の火尾を曳いて弓形に登り、わが散兵線上に数個破裂した時などは、青白い光が広がって昼の様であった。それに照らされては、隠れる陰がない。おまけに、そこから敵の砲塁までは小川もなく、樹木もなく、あった畑の黍は、敵が旅順要塞に退却の際、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・当時の成上りの田舎侍どもが郷里の糟糠の妻を忘れた新らしい婢妾は権妻と称されて紳士の一資格となり、権妻を度々取換えれば取換えるほど人に羨まれもしたし自らも誇りとした。 こういう道義的アナーキズム時代における人の品行は時代の背景を斟酌して考・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・すると、隣の国から、人が今度のご縁談について探りにきたといううわさが、すぐにその国の人々の口に上りましたから、さっそく御殿にも聞こえました。「どうしても、あの、美しい姫を、自分の嫁にもらわなければならぬ。」と、皇子は望んでいられるやさき・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・そうして懐手をしたまま、「お上り。」と一言言って、頤を杓った。 頤で杓った所には、猿階子が掛っていて、上り框からすぐ二階へ上がるようになっている。私は古草鞋や古下駄の蹈返された土間に迷々していると、上さんがまた、「お上り。」・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 子供は為方なしに、泣く泣く空から下がっている綱を猿のように登り始めました。子供の姿は段々高くなると一緒に段々小さくなりました。とうとう雲の中に隠れてしまいました。 みんなは口を明いて、呆れたように空の方を見ていました。 そうす・・・ 小山内薫 「梨の実」
出典:青空文庫