・・・ 野良日にやけて、雀斑が見えるようになった顔を沈痛にふせた。「瀬川はそれでいいかもしれないけれども――」 瀬川夫婦の友人に玉井志朗という男があった。大学が同期で、学内運動の先頭に立っていた秀才であり、万事目に立つ男だったのが、つ・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・の表口を出て、今度は電車にのらず自分は一種の亢奮を感じながら暮がたの街を歩いた。 この産院の一つでもいい。ブルジョア社会の中で無限な生活の苦痛と闘っているプロレタリアの女に見せたい。彼女が女なら理解せずにはいられないんだ。何が真に彼女た・・・ 宮本百合子 「モスクワ日記から」
・・・だから日本女だってやはり電車に乗るほど馬車にはのらなかった。今夜は特別だ。だんぜん特別だ。何故なら、彼女にはすることがうんとある。第一この膝の上に抱えている不恰好にふくらんだ書類入鞄の中から二本の瓶を出してストラスナーヤの角の家へおき、次に・・・ 宮本百合子 「モスクワの辻馬車」
・・・ 工場で誰の儲けのためにわれわれは、長い時間働らかされていますか。野良で、誰が懐手をして食う米をわたし達は作らされているでしょうか。 満州という柿の種にせっせと肥しをかけ働いている蟹はわれわれに近しい百姓姿に描いてあるが、みのった収・・・ 宮本百合子 「「モダン猿蟹合戦」」
・・・イプセンの「ノラ」は、ノラが人形でなくなろうとして人形の家を出てから先にこそ、女性の社会的問題があった。このことを、きょうの若い婦人で理解しない人はない。うたう雲雀、可愛いい人形から、急に一人の女に転生しようとしたノラの前途に、ふせられてい・・・ 宮本百合子 「離婚について」
・・・ イプセンの「ノラ、人形の家」はもうふるいと一部にいわれるが、そのふるくない解決へ何歩私たちは歩み出し得ているだろうか。ツルゲーネフの「処女地」「その前夜」は歴史がその解決の試みへの足どりを示している。ジイドの「女の学校、ロベル」などは・・・ 宮本百合子 「若い婦人のための書棚」
・・・ 小さい自作農の息子が分家をするだけの経済力がないために結婚難に陥っていること、またそういうところの若い娘たちが、また別の同じような農家へいわば一個の労働力として嫁にもらわれ、生涯つらい野良仕事をしなければならないことを厭って、なるたけ・・・ 宮本百合子 「若き世代への恋愛論」
・・・の心持が、ノラでない細君にも、人形にせられ、おもちゃにせられる不愉快を感じさせたのであろう。 木村のためには、この遊びの心持は「与えられたる事実」である。木村と往来しているある青年文士は、「どうも先生には現代人の大事な性質が闕けています・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・それを三斎が小倉へ呼び寄せて、高見氏を名のらせ、番頭にした。知行五百石であった。庄五郎の子が権右衛門である。島原の戦いに功があったが、軍令にそむいた廉で、一旦役を召し上げられた。それがしばらくしてから帰参して側者頭になっていたのである。権右・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・坐右の柱に半折に何やら書いて貼ってあるのを、からかいに来た友達が読んでみると、「今は音を忍が岡の時鳥いつか雲井のよそに名のらむ」と書いてあった。「や、えらい抱負じゃぞ」と、友達は笑って去ったが、腹の中ではやや気味悪くも思った。これは十九のと・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫