・・・婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てたまま、血だまりの中に死んでいました。「お婆さんはどうして?」「死んでいます」 妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。「私、ちっとも知らなかったわ。お婆さんは遠藤・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・あんまり和田が乗りたがるから、おつき合いにちょいと乗って見たんだ。――だがあいつは楽じゃないぜ。野口のような胃弱は乗らないが好い。」「子供じゃあるまいし。木馬になんぞ乗るやつがあるもんか?」 野口という大学教授は、青黒い松花を頬張っ・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ 海には僕等の来た頃は勿論、きのうさえまだ七八人の男女は浪乗りなどを試みていた。しかしきょうは人かげもなければ、海水浴区域を指定する赤旗も立っていなかった。ただ広びろとつづいた渚に浪の倒れているばかりだった。葭簾囲いの着もの脱ぎ場にも、・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・保吉は未だに食物の色彩――からすみだの焼海苔だの酢蠣だの辣薑だのの色彩を愛している。もっとも当時愛したのはそれほど品の好い色彩ではない。むしろ悪どい刺戟に富んだ、生なましい色彩ばかりである。彼はその晩も膳の前に、一掴みの海髪を枕にしためじの・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・禿げ上がった額の生え際まで充血して、手あたりしだいに巻煙草を摘み上げて囲炉裡の火に持ってゆくその手は激しく震えていた。彼は父がこれほど怒ったのを見たことがなかった。父は煙草をそこまで持ってゆくと、急に思いかえして、そのまま畳の上に投げ捨てて・・・ 有島武郎 「親子」
・・・与十の妻は黙って小屋に引きかえしたが、真暗な小屋の中に臥乱れた子供を乗りこえ乗りこえ囲炉裡の所に行って粗朶を一本提げて出て来た。仁右衛門は受取ると、口をふくらましてそれを吹いた。そして何か一言二言話しあって小屋の方に帰って行った。 この・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ごまのふってあるのや、中から梅干しの出てくるのや、海苔でそとを包んであるのや……こんなおいしい御飯を食べたことはないと思うほどだった。 火はどろぼうがつけたのらしいということがわかった。井戸のつるべなわが切ってあって水をくむことができな・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ もう一度、試みに踏み直して、橋の袂へ乗り返すと、跫音とともに、忽ち鳴き出す。 あまり爪尖に響いたので、はっと思って浮足で飛び退った。その時は、雛の鶯を蹂み躙ったようにも思った、傷々しいばかり可憐な声かな。 確かに今・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・…… 少年の瞼は颯と血を潮した。 袖さえ軽い羽かと思う、蝶に憑かれたようになって、垣の破目をするりと抜けると、出た処の狭い路は、飛々の草鞋のあと、まばらの馬の沓の形を、そのまま印して、乱れた亀甲形に白く乾いた。それにも、人の往来の疎・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・親仁はうしろへ伸上って、そのまま出ようとする海苔粗朶の垣根の許に、一本二本咲きおくれた嫁菜の花、葦も枯れたにこはあわれと、じっと見る時、菊枝は声を上げてわっと泣いた。「妙法蓮華経如来寿量品第十六自我得仏来所経諸劫数無量百千万億載阿僧・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
出典:青空文庫