・・・後者では東京湾の海苔生産の描写が大仕掛に文化映画的にかかれていて、その間に展開される人間の生活との比重に狂いを生じてさえいる。 それ等の工夫にかかわらず、系譜的と云われる作品が、とかく生活の生々しい絵巻というより楽な過ぎこし方の物語とな・・・ 宮本百合子 「今日の文学の諸相」
・・・おなかが空いたが板場は宵に家へ帰ったというので、餅をやき、海苔を巻いてたべる。女中達が、夜なかに吊橋を渡って髪結いに出かける下駄の歯の音だけが、どうやら大晦日らしい。去年の都会的越年とはひどく違う。去年はフダーヤと暁の三時頃神楽坂で買物をし・・・ 宮本百合子 「湯ヶ島の数日」
・・・そして犬の血のついたままの脇差を逆手に持って、「お鷹匠衆はどうなさりましたな、お犬牽きは只今参りますぞ」と高声に言って、一声快よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後から首を打った。 五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・夜がふけてから侍分のものが一人覆面して、塀をうちから乗り越えて出たが、廻役の佐分利嘉左衛門が組の足軽丸山三之丞が討ち取った。そののち夜明けまで何事もなかった。 かねて近隣のものには沙汰があった。たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・それから御一しょに乗りました。貴夫人。そうでした。そしてわたくしの内まで二十五分間その馬車のうちに御一しょにいましたのでございます。あなた一頭曳と二頭曳とはどれだけ違うか御承知。男。いや。分かりませんなあ。貴夫人。第一。一頭曳の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・れた、見るも情ない死骸が数多く散ッているが、戦国の常習、それを葬ッてやる和尚もなく、ただところどころにばかり、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚が出来ていて、それにはわずかに草や土やまたは敝れて血だらけになッている陣幕などが掛かッてい・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・と云うのは、秋三の祖父が、血統の不浄な貧しい勘次の父の請いを拒絶した所、勘次の母は自ら応じてその家へ走ったことから始まった。祖父の死後秋三の父は莫大な家産を蕩尽して出奔した。それに引き換え、勘次の父は村会を圧する程隆盛になって来た。そこで勘・・・ 横光利一 「南北」
・・・ すると、廂を脱れた日の光は、彼の腰から、円い荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。 三 宿場の空虚な場庭へ一人の農婦が馳けつけた。彼女はこの朝早く、街に務めている息子から危篤の電報を受けとった。それから露・・・ 横光利一 「蠅」
・・・一度なんぞは、ある気狂い女が夢中に成て自分の子の生血を取てお金にし、それから鬼に誘惑されて自分の心を黄金に売払ったという、恐ろしいお話しを聞いて、僕はおっかなくなり、青くなって震えたのを見て「やっぱりそれも夢だったよ」と仰って、淋しそうにニ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・白い柔らかさは抽出せられているが、中に血の通っている、しなやかな、生に張り切った実質の感じは、全然捨て去られている。全体を漠然と描いておいて、処々に細かい描写を散らしてあるのも、暗示的な描き方ではあるが、抽象的に過ぎる。思うに画家の目ざすと・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫