・・・この作品の作られる一九三八年にはまだエグジスタンシアリスムの提唱はなかったが、しかし、人間を醜怪、偶然と見るサルトルの思想は既にこの作品の背景となっており、最も思考する小説でありながら、いかなる思想も背景に持たず最も思考しない日本の最近の小・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・比叡山――それを背景にして、紡績工場の煙突が煙を立登らせていた。赤煉瓦の建物。ポスト。荒神橋には自転車が通り、パラソルや馬力が動いていた。日蔭は磧に伸び、物売りのラッパが鳴っていた。 五 喬は夜更けまで街をほっつき歩・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・何故ならそれだと夫婦生活の黄金時代にあったときにも、その誓いも、愛撫も、ささやきも、結局そんな背景のものだったのかと思えるからだ。 権利思想の発達しないのは、東洋の婦人の時代遅れの点もあろうが、われわれはアメリカ婦人のようなのが、婦人と・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・内面的自律の厳粛性の弱くなったきらいがなく意志の自律性を強靭に固守する点で形式的主観的でありながら、人間行為の客観的妥当性を強調して、主観的制約を脱せしめようと努め、また学的には充分な生の芸術的感覚の背景が行間に揺曳して、油気のない道学者の・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・には、日清戦争が背景となっている。そして、多くの上級の軍人が描かれている。黄海の海戦の描写もある。しかし、出てくる軍人も戦争の状景も、通俗小説のそれで、ひどく真実味に乏しい。それに、この一篇の主題は戦争ではなく浪子の悲劇にある。だから、ここ・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・ その時どうしたのだか知らないが、忽ち向うの白けた空の背景の上に鼠色の山の峯が七つ見えているあたりに、かっと日に照らされた、手の平ほどの処が見えて来た。その処は牧場である。緩傾斜をなして、一方から並木で囲まれている。山のよほど高い処にあ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ これらの點より推さばこの傳説作者は、天地人三才の思想を背景にして、之を創作せるものなるべく、漢人殊に儒教が天子に望む所は公明正大、その間に一點の私を插むなからんことなれば、この理想を堯に托してその禪讓をつくり、人道の理想を舜に、勤勉の・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・碧雲寺を背景にして支那服を着て立っている写真。私はその二枚を山田君に手渡した。「これはいい。髪の毛も、濃くなったようですね。」山田君は、何よりも先に、その箇所に目をそそいで言った。「でも、光線の加減で、そんなに濃く写ったのかも知れま・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ 拝啓。山田君は病気で故郷へ帰った。貴兄の縁談は小生が引継がなければならなくなった。しかるに小生は、君もご存じのとおり、人の世話など出来るがらの男ではない。素寒貧のその日暮しだ。役に立ちやしないんだ。けれども、小生と雖も、貴兄の幸福な結・・・ 太宰治 「佳日」
拝啓。 突然にて、おゆるし下さい。私の名前を、ご存じでしょうか。聞いた事があるような名前だ、くらいには、ご存じの事と思います。十年一日の如く、まずしい小説ばかりを書いている男であります。と言っても、決して、ことさらに卑・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫