・・・ ところが飯を食って、本郷の歯医者へ行ったら、いきなり奥歯を一本ぬかれたのには驚いた。聞いて見ると、この歯医者の先生は、いまだかつて歯痛の経験がないのだそうである。それでなければ、とてもこんなに顔のゆがんでいる僕をつかまえて辣腕をふるえ・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・見る見る歯医者の家の前を通り過ぎて、始終僕たちをからかう小僧のいる酒屋の天水桶に飛び乗って、そこでまたきりきり舞いをして桶のむこうに落ちたと思うと、今度は斜むこうの三軒長屋の格子窓の中ほどの所を、風に吹きつけられたようにかすめて通って、それ・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・隣の家は歯医者らしく、二階の部屋で白い診療衣を着た医者が黙々と立ち働いているのが見えました。治療してもらっているのはどこかの奥さんらしくアッパッパを着て、スリッパをはいた両足をきちんと揃えて、仰向いています。何か日々の営みのなつかしさを想わ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・まず、歯医者へ通いはじめました。あなたは虫歯が多くて、お笑いになると、まるでおじいさんのように見えましたが、けれどもあなたは、ちっとも気になさらず、私が、歯医者へおいでになるようにおすすめしても、いいよ、歯がみんな無くなりゃあ総入歯にするん・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・ 日本の映画は、そんな敗者の心を目標にして作られているのではないかとさえ思われる。野望を捨てよ。小さい、つつましい家庭にこそ仕合せがありますよ。お金持ちには、お金持ちの暗い不幸があるのです。あきらめなさい。と教えている。世の敗者たるもの・・・ 太宰治 「弱者の糧」
・・・ 私は、まっすぐに走りだした。歯医者。小鳥屋。甘栗屋。ベエカリイ。花屋。街路樹。古本屋。洋館。走りながら私は自分が何やらぶつぶつ低く呟いているのに気づいた。――走れ、電車。走れ、佐野次郎。走れ、電車。走れ、佐野次郎。出鱈目な調子をつけて繰り・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ても、遠方から福音の訪れ来る気配はさらに無く、毎日毎日、忍び難い侮辱ばかり受けて、大勇猛心を起して郷試に応じても無慙の失敗をするし、この世には鉄面皮の悪人ばかり栄えて、乃公の如き気の弱い貧書生は永遠の敗者として嘲笑せられるだけのものか。女房・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ 君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。 日蔭者の苦悶。 弱さ。 聖書。 生活の恐怖。 敗者の祈り。 君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさ・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・ありがとうございます、という老生の声は、獣の呻き声にも似て憂愁やるかた無く、あの入歯を失わば、われはまた二箇月間、歯医者に通い、その間、一物も噛む事かなわず、わずかにお粥をすすって生きのび、またわが面貌も歯の無き時はいたく面変りてさらに二十・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・私は永遠に敗者なのかも知れない。「いくつになっても、同じだね。自分では、ずいぶん努力しているつもりなのだけれど。」歩きながら、思わず愚痴が出た。「文学って、こんなものかしら。どうも僕は、いけないようだね。こんな、なりをして歩いて。」・・・ 太宰治 「服装に就いて」
出典:青空文庫