・・・や、そこにしまわれてある絵画や彫刻によって、どれだけ慰められ、得をしたかしれなかったが――もちろん私もそういう趣味はないことはないので、それらの宝蔵を瞥見しただけでも、多少のありがた味を感じないわけにはいかなかったが、それも今の私の気分とは・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・三吉はいそいで橋をわたり、それからふたたび鉄の門へむかって歩きだす。――きょうはどのへんで逢うだろうか――。 鉄の門をおしやぶるようにして、人々は三つの流れをつくっている。二つは門前の道路を左右へ、いま一つは橋をわたって、まっすぐにこっ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・大分禿げ上った頭には帽子を冠らず、下駄はいつも鼻緒のゆるんでいないらしいのを突掛けたのは、江戸ッ子特有の嗜みであろう。仲間の職人より先に一人すたすたと千束町の住家へ帰って行く。その様子合から酒も飲まなかったらしい。 この爺さんには娘が二・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大に参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにする・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「オーイ」 相番のコーターマスターが、タラップから顔を覗かすと、直ぐに一運は怒鳴った。「時間中に、おもてへ入ることは能きないって、おもてへ行って、ボースンにそう云って来い」「ハイ」 彼が下りかけると、浴せかけるように、一・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・「はい、はい。どうもお気の毒さま」と、お熊は室外へ出た。「本統に誰かよこしておくんなさいよ。お梅どんがどッかいるだろうから、来るように言ッておくんなさいよ」と、小万も上の間へ来ながら声をかけたが、お熊はもういないのか返辞がなかッた。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 上士 下士 商 農見て呉れよと みちくれい みちくりい みてくりい みちぇくりいいうことを行けよという いきなさい いきなはい 下士に同じ 下士に同じこと・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・これもと一場の戯言なりとはいえども、この戯言はこれを欲するの念切なるより出でしものにして、その裏面にはあながちに戯言ならざるものありき。はたしてこの戯言は同氏をして蕪村句集を得せしめ、余らまたこれを借り覧て大いに発明するところありたり。死馬・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・「あぶないぞナ。」「なに大丈夫サ、大丈夫天下の志サ。おい車屋、真砂町まで行くのだ。」「お目出とう御座います。先生は御出掛けになりましたか。」「ハイ唯今出た所で、まア御上りなさいまし。」「イヤ今日は急いでいるから上りません。」「あなたもう・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・ ただ一かけの鳥も居ず、どこにもやさしい獣のかすかなけはいさえなかったのです。(私は全体何をたずねてこんな気圏の上の方、きんきん痛 私はひとりで自分にたずねました。 こけももがいつかなくなって地面は乾いた灰いろの苔で覆われと・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
出典:青空文庫