・・・Sは挙手の礼をした後、くるりと彼に後ろを向け、ハッチの方へ歩いて行こうとした。彼は微笑しないように努力しながら、Sの五六歩隔った後、俄かにまた「おい待て」と声をかけた。「はい。」 Sは咄嗟にふり返った。が、不安はもう一度体中に漲って・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・マストに風が唸ったり、ハッチへ浪が打ちこんだりしても、その浪なり風なりは少しも文字の上へ浮ばなかった。彼は生徒に訳読をさせながら、彼自身先に退屈し出した。こう云う時ほど生徒を相手に、思想問題とか時事問題とかを弁じたい興味に駆られることはない・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・楽隊も出て来てハッチの上に陣取った。時刻が来ると三々五々踊り始めた。少し風があるのでスカーフを頬かぶりにしている女もある。四つの足が一組になっていろいろ入り乱れるのを不思議に思って見守るのであった。横浜から乗って来た英人のCがオランダの女優・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・甲の浦沖を過ぐと云う頃ハッチより飯櫃膳具を取り下ろすボーイの声八ヶましきは早や夕飯なるべし。少し大胆になりて起き上がり箸を取るに頭思いの外に軽くて胸も苦しからず。隣りに坐りし三十くらいの叔母様の御給仕忝しと一碗を傾くればはや厭になりぬ。寺田・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・給仕をするのに、一々、大きな扉の開閉をせず、配膳室との境に、適当な大きさのハッチをつけ、台所で料理出来たものは、彼方側から其処の棚にのせ、給仕人が、此方から、部屋を出ず食卓に運ぶ。 とかく五月蠅い人の出入りは、食事中なる丈さけたいと思い・・・ 宮本百合子 「書斎を中心にした家」
・・・夕方、スムールイが巨大な体をハッチに据えて、ゆるやかに流れ去って行くヴォルガの遠景を憂わしげに眺めながら、何時間も何時間も黙って坐っているような時があった。こういう時の、スムールイを皆が特別に怖れた。 禿頭の料理番が出て来て、そうやって・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫