・・・私は商品を汚されてはという心配から、思わずはっと抱きかかえて、ふとみると思いがけない文子の顔。文子はおやとなつかしそうに、十吉つあんやおまへんか、久しぶりだしたなアと、さすがに笠屋町の上級生の顔を覚えていてくれました。文子はそのころもう宗右・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・一軒二軒、昔と変わらない家が、新しい家に挾まれて残っていた。はっと胸を衝かれる瞬間があった。しかしその家は違っていた。確かに町はその町に違いなかった。幼な友達の家が一軒あった。代が変わって友達の名前になっていた。台所から首を出している母らし・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・という弱々しい未練いっぱいの訴えとなって終わってしまうほかないので、それも考えてみれば未練とは言ってもやはり夜中なにか起こったときには相手をはっと気づかせることの役には立つという切羽つまった下心もは入っているにはちがいなく、そうすることによ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・それが、急に調子の変った激しい声だったので、イワンは自分に何か云われたのかと思って、はっとした。 彼が、大佐の娘に熱中しているのを探り出して、云いふらしたのも吉原だった。「不軍紀な、何て不軍紀な! 徹底的に犠牲にあげなきゃいかん!」・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ 細君が静かに酌をしようとしたとき、主人の手はやや顫えて徳利の口へカチンと当ったが、いかなる機会か、猪口は主人の手をスルリと脱けて縁に落ちた。はっと思うたが及ばない、見れば猪口は一つ跳って下の靴脱の石の上に打付って、大片は三ツ四ツ小片の・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ こう見てくれば、死刑は、もとより時の法度にてらして課されたものが多くをしめているのは、論のないところだが、なんびとかよく世界万国有史以来の厳密な統計をもとにして、死刑はつねに恥辱・罪悪にともなうものだと断言しうるであろうか。いな、死刑・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 観て此に至れば、死刑は固より時の法度に照して之を課せる者多きを占むるは論なきも、何人か能く世界万国有史以来の厳密なる統計を持して、死刑は常に恥辱・罪悪に伴えりと断言し得るであろう歟、否な、死刑の意味せる恥辱・罪悪は、その有せる光栄若く・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 母は、ひとり離れて坐って、兄妹五人の、それぞれの性格のあらわれている語りかたを、始終にこにこ微笑んで、たのしみ、うっとりしていたのであるが、このとき、そっと立って障子をあけ、はっと顔色かえて、「おや。家の門のところに、フロック着た・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・足を少しうごかして、自分が足袋をはいているままで寝ているのに気附いてはっとした。しまった! いけねえ! ああ、このような経験を、私はこれまで、何百回、何千回、くりかえした事か。 私は、唸った。「お寒くありません?」 と、キク・・・ 太宰治 「朝」
・・・ふと、気がついて、頭に手をやると、留針がない。はっと思って、「あら、私、嫌よ、留針を落としてよ」と友達に言うでもなく言って、そのまま、ばたばたとかけ出した。 男は手を挙げたまま、そのアルミニウムの留針を持って待っている。娘はいきせき駆け・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫