・・・おれははっと思うと、がっかりしてその椅子に倒れ掛かった。ボオイが水を一ぱい持って来てくれた。 門番がこう云った。「いや、大した手数でございましたそうです。しかしまあ、万事無事に済みまして結構でございました。すぐに見付かればよろしいのでご・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・それを見たときにはっと何かしら胸を突かれるような気がして、張りつめて来た心が一時にゆるみ、そうして止処のない涙が流れ出るのであった。 六 ある食堂の隣室に自働電話の自働交換台がある。同じような筒形のものが整列・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・それで急に道を失ったと気がついて、はっとした時に、ちょうど来かかった人にいきなり道を聞くのになんの不思議もないことである。 しかし、こんなことを考えている元のおこりはと言えば、ただかの男が自分に亀井戸への道を聞いたというきわめて簡単なた・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・この小さな日本を六十幾つに劃って、ちょっと隣へ往くにも関所があり、税関があり、人間と人間の間には階級があり格式があり分限があり、法度でしばって、習慣で固めて、いやしくも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆謀叛人であった時代を想像して御・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・「――それで、諸君が、レーニンさんになんなはっとだろうたい」 しかし、つりがねマントの学生たちは、長野や高坂と同じではなかった。“中央集権”是か非か。“ブルジョア議会”の肯定と否定。“ソビエット”と“自由連合”。労働者側では小野が一・・・ 徳永直 「白い道」
・・・うとうとして居ると赤が吠えながら駈け出したように思われてはっと眼が醒めたり、鍋の破片へまけてやった味噌汁をぴしゃぴしゃと嘗めて居る音が聞えるように思われたり、自分の寝て居る床の下に赤が眠って居るように思われたりしてならなかった。彼は更に次の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒ましたら、時計はとくに鳴りやんだが、頭のなかはまだ鳴っている。しかもその鳴りかたが、しだいに細く、しだいに遠く、しだいに濃かに、耳から、耳の奥へ、耳の奥から、脳のなかへ、脳のなかから、心の底へ浸み渡って・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ この火を見た時、余ははっと露子の事を思い出した。露子は余が未来の細君の名である。未来の細君とこの火とどんな関係があるかは心理学者の津田君にも説明は出来んかも知れぬ。しかし心理学者の説明し得るものでなくては思い出してならぬとも限るまい。・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ オオビュルナンははっと思って、さっき中庭を通って町へ出た女の事を思い出した。「あれがマドレエヌだったのか。」この独言が自分の耳に這入って、オオビュルナンはようよう我に帰った。そして怒気を帯びて下女の前に一歩進んだ。下女は驚いて覚えず壁・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・と書きしことさえ思い出されてなつかし、蕪村の磊落にして法度に拘泥せざりしことこの類なり。彼は俳人が家集を出版することをさえ厭えり。彼の心性高潔にして些の俗気なきこともって見るべし。しかれども余は磊落高潔なる蕪村を尊敬すると同時に、小心ならざ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫