・・・原に真葛、川に加茂、山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背を欄干にもたせ変えた時、二上り新内を唄うのが対面の座敷から聞えた。「わるどめせずとも、そこ放せ、明日の月日の、ないように、止めるそなたの、心より、かえるこの身は、どんなに・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その疵のある象牙の足の下に身を倒して甘い焔を胸の中に受けようと思いながら、その胸は煖まる代に冷え切って、悔や悶や恥のために、身も世もあられぬ思をしたものが幾人あった事やら。お前はジョコンダだな。その秘密らしい背景の上に照り輝いて現われている・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・自分は足がガクガクするように感ぜられて、室に帰って寐ると、やがて足は氷の如く冷えてしもうた。これは先刻風呂に這入った反動が来たのであるけれど、時機が時機であるから、もしやコレラが伝染したのであるまいかという心配は非常であった。この梅干船(こ・・・ 正岡子規 「病」
・・・ 叔父さんのマントなんか、まるで冷えてしまっているよ。小さな小さな氷のかけらがさらさらぶっかかるんだもの、そのかけらはここから見えやしないよ」「又三郎さんは去年なも今頃ここへ来たか。」「去年は今よりもう少し早かったろう。面白かっ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・火山がだんだん衰えて、その腹の中まで冷えてしまう。熔岩の棒もかたまってしまう。それから火山は永い間に空気や水のために、だんだん崩れる。とうとう削られてへらされて、しまいには上の方がすっかり無くなって、前のかたまった熔岩の棒だけが、やっと残る・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・丁度前の晩が霜でも下りそうに冷えたので、きっとその寒さに当たったのだろうと、夫は云う。 彼は、他のものまで凍えさせては大変だと云う風で、一も二もなく火の気のある室内に籠を引入れた。籠は彼の手造りである。無骨な、それでも優しい暢やかな円天・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 私の手の中に刻々に冷えまさる小さい五本の指よ、神様! 私はたまらなくなった。 酔った様に部屋を出た。行く処もない。私は恐ろしさに震きながらも私は又元の悲しみの世界に引きもどされた。眼にはいかなる力を以ても争う事の出来ない絶大の・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 良人に左翼女優の比叡子という愛人が出来、妻はそれを苦しみ、愛をとり戻そうとして自分を傷けたことから誤って死んだのであったが、法廷で、この女優が、殺人をおかさせたのは自分であると云う。その心持を、人間的な感情上の責任感として、あるがまま・・・ 宮本百合子 「作家のみた科学者の文学的活動」
・・・饂飩が冷えます。」 寧国寺さんは饂飩を食べるのである。暫くすると、竹が「お代りは」と云って出て来た。そしてお代りを持って来るのを待って、主人は竹を呼び留めた。「少しこの辺を片附けて、お茶を入れて、馬関の羊羹のあったのを切って来い。お・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫