・・・夫婦はひそひそ語り合っていたが、案の定、柳吉はある日ぶらりと出て行ったまま、幾日も帰って来なかった。 七日経っても柳吉は帰って来ないので、半泣きの顔で、種吉の家へ行き、梅田新道にいるに違いないから、どんな容子かこっそり見て来てくれと頼ん・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・老夫婦は孫に菓子与えなどし、家の事どもひそひそと語りあえり。浦に着きしころは日落ちて夕煙村を罩め浦を包みつ。帰舟は客なかりき。醍醐の入江の口を出る時彦岳嵐身にしみ、顧みれば大白の光漣に砕け、こなたには大入島の火影早きらめきそめぬ。静かに櫓こ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ けれども母と叔母はさしむかいでいても決して笑い転げるようなことはありません、二人とも言葉の少ない、物案じ顔の、色つやの悪い女でしたが、何か優しい低い声でひそひそ話し合っていました。一度は母が泣き顔をしている傍で叔母が涙ぐんでいるのを見・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 見たまえ、鍛冶工の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄の真赤になったのが鉄砧の上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・男はこの様子を見て四方をきっと見廻わしながら、火鉢越に女の顔近く我顔を出して、極めて低き声ひそひそと、「そんなら汝、おれが一昨日盗賊をして来たんならどうするつもりだ。と四隣へ気を兼ねながら耳語き告ぐ。さすがの女ギョッとして身を退きし・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ 真昼の荻窪の駅には、ひそひそ人が出はいりしていた。嘉七は、駅のまえにだまって立って煙草をふかしていた。きょときょと嘉七を捜し求めて、ふいと嘉七の姿を認めるや、ほとんどころげるように駈け寄って来て、「成功よ。大成功。」とはしゃいでい・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ッサアという小説は、さる田舎の女学校の出来事を叙したものであって、放課後、余人ひとりいないガランとした校舎、たそがれ、薄暗い音楽教室で、男の教師と、それから主人公のかなしく美しい女のひとと、ふたりきりひそひそ世の中の話を語っているのであるが・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・ないらしくある男にビールを一本渡してそのかわりに私を受け取り、そうしてこんどはその小都会に葡萄酒の買出しに来て、ふつう闇値の相場は葡萄酒一升五十円とか六十円とかであったらしいのに、婆さんは膝をすすめてひそひそひそひそいって永い事ねばり、時々・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・ くだんの新内、薄化粧の小さな顔をにゅっと近よせ、あたりはばかるひそひそ声で、米屋、米屋、と囁いた。そこへ久保田万太郎があらわれた。その店の、十の電燈のうち七つ消されて、心細くなったころ、鼻赤き五十を越したくらいの商人が、まじめくさってはい・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ある日宅の女中が近所の小母さん達二、三人と垣根から隣を透見しながら、何かひそひそ話しては忍び笑いに笑いこけているので、自分も好奇心に駆られてちょっと覗いてみると、隣の裏庭には椅子を持出してそれに楠さんが腰をかけている。その傍に立った丸髷の新・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
出典:青空文庫