・・・ 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・家内ひっそりと、八角時計の時を刻む音ばかり外は物すごき風狂えり。『時に吉さんはどうしてるだろう』と幸衛門が突然の大きな声に、『わたしも今それを思っていたのよ』とお絹は針の手をやめて叔父の方を見れば叔父も心配らしいまじめな顔つき。・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・川村の組は勝手にふざけ散らして先へ行く、大友とお正は相並んで静かに歩む、夜は冷々として既に膚寒く覚ゆる程の季節ゆえ、渓流に沿う町はひっそりとして客らしき者の影さえ見えず、月は冴えに冴えて岩に激する流れは雪のようである。 大友とお正は何時・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・「牛屋は、ボッコひっそりとしとるじゃないや。」「うむ。」「藤二は、どこぞへ遊びに行たんかいな。」 母は荷を置くと牛部屋をのぞきに行った。と、不意に吃驚して、「健よ、はい来い!」と声を顫わせて云った。 健吉は、稲束を投・・・ 黒島伝治 「二銭銅貨」
・・・ 隣家を外から伺うと、人声一つせず、ひっそりと静まりかえっていた。たゞ、鶏がコツ/\餌を拾っているばかりだ。すべてがいつもと変っていなかった。でも彼は、反物が気にかゝって落ちつけなかった。 彼は家のぐるりを一周して納屋へ這入って見た・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・今の住居の南隣に三年ばかりも住んだ家族が、私たちよりも先に郊外のほうへ引っ越して行ってしまってからは、いっそう周囲もひっそりとして、私たちの庭へ来る春もおそかった。 めずらしく心持ちのよい日が私には続くようになった。私は庭に向いた部屋の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 次第に戸の外もひっそりとして来た。熊吉は姉を心配するような顔付で、おげんの寝床の側へ来て坐った。熊吉は黙って煙草ばかりふかしていた。おげんの内部に居る二人の人が何時の間にか頭を持上げた。その二人の人が問答を始めた。一人が何か独言を言え・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・魔物がひとの家にはじめて現われる時には、あんなひっそりした、ういういしいみたいな姿をしているものなのでしょうか。その夜から、私どもの店は大谷さんに見込まれてしまったのでした。それから十日ほど経って、こんどは大谷さんがひとりで裏口からまいりま・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ とおっしゃって、六畳間へ行き、それっきりひっそりとなってしまいましたが、身をもんで忍び泣いているに違いございません。 夫は、革命のために泣いたのではありません。いいえ、でも、フランスに於ける革命は、家庭に於ける恋と、よく似ているの・・・ 太宰治 「おさん」
・・・ 猟の群が通り過ぎると、ひっそりする。沼の面が鏡のように静まる。 いずこともなくニンフとパンの群が出て来る。眩しいような真昼の光の下に相角逐し、駈けり狂うて汀をめぐる。汀の草が踏みしだかれて時々水のしぶきが立つ。やがて狂い疲れて樹蔭・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
出典:青空文庫