・・・それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。 そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。「おい。おい。あの二階に誰が住んで・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・――低い舷の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍い光のある、幅の広い川面は、遠い新大橋にさえぎられるまで、ただ一目に見渡される。両岸の家々はもう、たそがれの鼠色に統一されて、その所々には障子にうつるともしびの光さえ黄色く靄の中に浮・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・何気なく陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。陀多はこれを見る・・・ 芥川竜之介 「蜘蛛の糸」
・・・僕は人目には平然と巻煙草を銜えていたものの、だんだん苛立たしさを感じはじめた。「莫迦! 何を話しているんだ?」「何、きょう嶽麓へ出かける途中、玉蘭に遇ったことを話しているんだ。それから……」 譚は上脣を嘗めながら、前よりも上機嫌・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ぼくたちはポチを一目見ておどろいてしまった。からだじゅうをやけどしたとみえて、ふさふさしている毛がところどころ狐色にこげて、どろがいっぱいこびりついていた。そして頭や足には血が真黒になってこびりついていた。ポチだかどこの犬だかわからないほど・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・わかい武士は一目見るとおどろいてそれを受け取ってしばらくは無言で見つめていましたが、「これだ、これだ、この玉だ。ああ私はもう結婚ができる。結婚をして人一倍の忠義ができる。神様のおめぐみ、ありがたいかたじけない。この玉をみつけた上は明日に・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・フレンチは時計を出して一目見て、身を起した。 出口のところで、フレンチが靴の上に被せるものを捜しているときになって、奥さんはやっと臆病げに口を開いた。「あなた御病気におなりなさりはしますまいね。」 フレンチは怒が心頭より発した。・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 面を背けて、港の方を、暗くなった目に一目仰いだ時である。「火事だ、」謹三はほとんど無意識に叫んだ。「火事だ、火事です。」 と見る、偉大なる煙筒のごとき煙の柱が、群湧いた、入道雲の頂へ、海ある空へ真黒にすくと立つと、太陽を横・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷くなっていた。 こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁る海の幸よ。 その夜はやがて、砂白く、崖蒼き、玲瓏たる江見の月に、奴・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌に遮られ、樹に包まれ、兇漢に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのであ・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
出典:青空文庫