・・・ 七 親父はその晩、一合の酒も飲まないで、燈火の赤黒い、火屋の亀裂に紙を貼った、笠の煤けた洋燈の下に、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場に立ちもせず、袖に継のあたった、黒のごろの半襟の破れた、千草色の半纏の・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・山本屋の門には火屋なしのカンテラを点して、三十五六の棒手振らしい男が、荷籠を下ろして、売れ残りの野菜物に水を与れていた。私は泊り客かと思ったら、後でこの家の亭主と知れた。「泊めてもらいたいんですが……」と私は門口から言った。 すると・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・早朝、練兵場の草原を踏みわけて行くと、草の香も新鮮で、朝露が足をぬらして冷や冷やして、心が豁然とひらけ、ひとりで笑い出したくなるくらいである、という家内の話であった。私は暑熱をいい申しわけにして、仕事を怠けていて、退屈していた時であったから・・・ 太宰治 「美少女」
・・・ 六 万客の垢を宿めて、夏でさえ冷やつく名代部屋の夜具の中は、冬の夜の深けては氷の上に臥るより耐えられぬかも知れぬ。新造の注意か、枕もとには箱火鉢に湯沸しが掛かッて、その傍には一本の徳利と下物の尽きた小皿とを載せた盆・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 灯がその火屋の中にともるとキラキラと光るニッケル唐草の円いランプがあって、母は留守の父のテーブルの上にそのランプを明々とつけ、その上で雁皮紙を詠草のよう横に折った上へ、細筆でよく手紙を書いた。白い西洋封筒は軽い薄い雁皮の紙ながら、ふっ・・・ 宮本百合子 「父の手紙」
・・・やがて、見晴し亭と朱で電燈の丸火屋に書いた奉納燈があり、同じ文字の横看板をかかげた格子戸が向うに見えた。藍子は「婦系図」の、やはり湯島天神境内の場面を思い出し、自分の書生っぽ姿を思い合わせ、ひとり笑いを浮べた。 格子をあけると、十八九の・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・と叫ぶ。冷ややけき世人は前世の因と説き運命と解き平然として哀れなる労働者を見下す。惨酷である。咫尺を解かぬ暗夜にこれこそとすがりしこの綱のかく弱き者とは知らなかった。危うしと悟る瞬間救いを叫ぶは自然である。彼らを危うしと見ながら悠々とエジプ・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫