・・・ただ宇治川の流れと、だらだらした山の新緑が、幾分私の胸にぴったりくるような悦びを感じた。 大阪の町でも、私は最初来たときの驚異が、しばらく見ている間に、いつとなしにしだいに裏切られてゆくのを感じた。経済的には膨脹していても、真の生活意識・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・おひろは瘠せた膝をして、ぴったりとそこに坐った。「相変らず瘠せているね。やっぱり出てるんだね」道太は浅黒いその顔を見ながら話しかけた。「ええ、効性がないもんですから、いつお出でたんですの」おひろは銚子を取り上げながら辰之助に聞いたり・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・おれの場所を半分分けてやる。ぴったり食っ附いて寝ると、お互に暖かでいい。ミリオネエルはよく出来たな。」 爺いさんは一本腕の臂を攫んだ。「まあ、黙って聞け。おれがおぬしに見せてやる。おれの宝物を見せるのだ。世界に類の無い宝物だ。」 一・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ほんに思えばあの嬉しさの影をこの胸にぴったり抱き寄せるべきであったろうに。あの苦労の影を熟く味ったら、その中からどれ程嬉しさが沸いたやら知れなんだ物を。ああ、悲の翼は己の体に触れたのに、己の不性なために悲の代に詰まらぬ不愉快が出来たのだ。も・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖へ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、「兄な、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・タネリは、こっそり爪立てをして、その一本のそばへ進んで、耳をぴったり茶いろな幹にあてがって、なかのようすをうかがいました。けれども、中はしんとして、まだ芽も葉もうごきはじめるもようがありませんでした。「来たしるしだけつけてくよ。」タネリ・・・ 宮沢賢治 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」
・・・それだからこそ、私たちの生活の必要にぴったりと結びついており、生活的関心はトピックに対する最も強い興味であることを証明しているのであると思う。 食糧問題についても、私たちは随分長いこと、分不相応な苦痛と努力と七転八倒的なやりくりを経験し・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・ ここに、生活の条件とぴったりあった人の考えかた、判断というものがあらわれているわけです。 きょう本を買うにしても、その判断を示す一冊の本の買いかたに私たちの今日もっている文化の水準も傾向もおのずからあらわれているわけです。 一・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・岸の石垣にぴったり寄せて、河原に大きい材木がたくさん立ててあります。荒川の上から流して来た材木です。昼間はその下で子供が遊んでいますが、奥の方には日もささず、暗くなっている所があります。そこなら風も通しますまい。わたしはこうして毎日通う塩浜・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・しかもそれが黒青く淀んだ、そのくせ恐ろしく光沢のある、深い色合と、不思議にぴったり結びついている。そういう味わいに最初に接した時の驚嘆――「あの驚嘆を再びすることができるなら、私はどんなことでも犠牲にする」。この言葉は今でも自分の耳に烙きつ・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
出典:青空文庫