・・・頭髪にチックをつけている深水は、新婚の女房も意識にいれてるふうで、「――わしも応援するよ、普選になればわれわれ熊連は市会議員でも代議士でも、ドンドンださんといかん」 いいながら、こんどは三吉を仲間にいれようとする。「君ァどうかね・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ すべてこんなふうにでき上がっている先生にいちばん大事なものは、人と人を結びつける愛と情けだけである。ことに先生は自分の教えてきた日本の学生がいちばん好きらしくみえる。私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰ろうとした時、自分は今日本を去る・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・ こういったふうな状態は、彼をやや神経衰弱に陥れ、睡眠を妨げる結果に導いた。 彼とベッドを並べて寝る深谷は、その問題についてはいつも口を緘していた。彼にはまるで興味がないように見えた。 どちらかといえば、深谷のほうがこんな無気味・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・と、西宮も見送りながら、「ふうむ」 三ツばかり先の名代部屋で唾壺の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸をした。 途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外沈着い・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・それからすばやく下を向き、何でもないというふうで、いままでどおり往ったり来たりしていたもんだ。 するとこんどは白象が、片脚床にあげたのだ。百姓どもはぎょっとした。それでも仕事が忙しいし、かかり合ってはひどいから、そっちを見ずに、やっぱり・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・そして、その騒々しさからは幾歩か身をはなしておいて、政治的には発展せず、政治屋ふうになった一部の婦人のうごきを眺めている気分も感じられる。 けれども、私たちは、自分の身につける肌着が清潔であるか、ないかという責任を、誰にゆだねているだろ・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・車台の上では二人の男、おかしなふうに身体を揺られている。そして車の中の一人の女はしかと両側を握って身体の揺れるのを防いでいる。 ゴーデルヴィルの市場は人畜入り乱れて大雑踏をきわめている。この群集の海の表面に現われ見えるのは牛の角と豪農の・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・チェントラアルテアアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合ってすわっていて、おこったり、なかなおりをしたりした昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は想い浮かべずにはいられなかったのである。女は笑談・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・と梶に呟くふうだった。梶は栖方の臍も見たと思って眠りについた。 梶と栖方はその後一度も会っていない。その秋から激しくなった空襲の折も、梶は東京から一歩も出ず空を見ていたが、栖方の光線はついに現れた様子がなかった。梶は高田とよく会うた・・・ 横光利一 「微笑」
・・・しかもそこに描かれている世界は、衣裳、風俗から役人の名に至るまで、全然『源氏物語』ふうであって、インドを思わせるものは何もないのである。 女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人の后が国王に侍して・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫