・・・父の亡魂なのだ。不孝の子を父ははるばると訪ねてきてくれたのだと思うと私はまた新しく涙が出てきたが、私は父を慕う心持で胸がいっぱいになった。「お前も来い! 不憫な子よ、お前の三十五年の生涯だって結局闇から闇に彷徨していたにすぎないんだが、私の・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・然しお政さんなんぞは幸福さ、いくら親に不孝な男でも女房だけは可愛がるからね。お光などのように兵隊の気嫌まで取て漸々御飯を戴いていく女もあるから、お前さんなんぞ決して不足に思っちゃなりませんよ」 皮肉も言い尽して、暫らく烟草を吹かしながら・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・平ノ左衛門尉はさすがに一言も発せず、不興の面持であった。 しかるに果して十月にこの予言は的中したのであった。 彼はこの断言の時の心境を述懐して、「日蓮が申したるには非ず、只ひとへに釈迦如来の御神我身に入りかはせ給ひけるにや。我身なが・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・自分の不面目はもとより、貴人のご不興も恐多いことでは無いか。」 ここまで説かれて、若崎は言葉も出せなくなった。何の道にも苦みはある。なるほど木理は意外の業をする。それで古来木理の無いような、粘りの多い材、白檀、赤檀の類を用いて彫刻するが・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・エ、ペンペン草で一盃飲まされたのですか、と自分が思わず呆れて不興して言うと、いいサ、粥じゃあ一番いきな色を見せるという憎くもないものだから、と股引氏はいよいよ人を茶にしている。土耳古帽氏は復び畠の傍から何か採って来て、自分の不興を埋合せるつ・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・親ッてこんな不孝ものにも、矢張りこんなに厚い蒲団を送って寄こすものかなア。」 俺はだまっていた。 独りになって、それを隅の方に積み重ねながら、本当にそれがゴワ/\していて重く、厚くて、とてつもなく巾が広いことを知った。 その後、・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・その有様を見ているうちに、さすがに私も、この弟子たちと一緒に艱難を冒して布教に歩いて来た、その忍苦困窮の日々を思い出し、不覚にも、目がしらが熱くなって来ました。かくしてあの人は宮に入り、驢馬から降りて、何思ったか、縄を拾い之を振りまわし、宮・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・私の家は、この五、六年、私の不孝ばかりでは無く、他の事でも、不仕合せの連続の様子なのである。おゆるし下さい。「K町の、辻馬……」というには言った積りなのであるが、声が喉にひっからまり、殆ど誰にも聞きとれなかったに違いない。「もう、い・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・私の事で、こんな騒ぎになって、私ほど悪い不孝な娘は無いという気がしました。こんな事なら、いっそ、綴方でも小説でも、一心に勉強して、母を喜ばせてあげたいとさえ思いましたが、私は、だめなのです。もう、ちっとも何も書けないのです。文才とやらいうも・・・ 太宰治 「千代女」
・・・筆者は、やはり人間は、美しくて、皆に夢中で愛されたら、それに越した事は無いとも思っているのでございますが、でも、以上のように神妙に言い立てなければ、或いは初枝女史の御不興を蒙むるやも計り難いので、おっかな、びっくり、心にも無い悠遠な事どもの・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
出典:青空文庫