・・・神を信ずるよりも母を信ずる方が子供に取っては深く、且つ強いのである。実に母と子の関係は奇蹟と云っても可い程に尊い感じのするものであり、また強い熱意のある信仰である。そして、母と子の愛は、男と女の愛よりも更に尊く、自然であり、別の意味に於て光・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・風の吹く日も、黒のシルクハットをかぶって燕尾服を着た皇子を乗せた、この馬車の幻は走っていきました。 お姫さまは、もう、どうしたら、いちばんいいであろうかと迷っていられました。「ああ、こうして、幻にうなされるというのも、わたしの運命で・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・これから何だね、ゴーッて足まで掠ってきそうな奴が吹くんだね。するとじきまた、白いのがチラチラ降るようになるんだ。旅を渡る者にゃ雪は一番御難だ。ねえ君、こうして私のように、旅から旅と果しなしに流れ渡ってて、これでどこまで行着きゃ落着くんだろう・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 金之助は深くも気に留めぬ様子で、「こっちだっていつのことだかまだ分らねえんだから……だが、わけのねえことだから、見合いだけちょっとやらかして見ようか?」「え、見合いを」お光はぎょッとしたように面を振り挙げたが、「さあ……ね、だけど・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・夜の底はしだいに深くなって行った。私は力なく起ち上って、じっと川の底を覗いていると、おいと声を掛けられました。 振り向くと、バタ屋――つまり大阪でいう拾い屋らしい男でした。何をしているのだと訊いたその声は老けていましたが、年は私と同じ二・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・の伊助は三三九度の盞をまるで汚い物を持つ手つきで、親指と人差指の間にちょっぴり挾んで持ち、なお親戚の者が差出した盞も盃洗の水で丁寧に洗った後でなければ受け取ろうとせず、あとの手は晒手拭で音のするくらい拭くというありさまに、かえすがえす苦りき・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ぶしつけな不遜な私の態度を御赦しくださいませ――なおもなおも深く身を焦さねばならぬ煩悩の絆にシッカと結びつけられながら、身ぶるいするようなあの鉄枠やあるいは囚舎の壁、鉄扉にこの生きた魂、罪に汚れながらも自分のものとしてシッカと抱いていねばな・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・とにかく君の本体なるものは活きた、成長して行く――そこから芽が吹くとか枝が出るとかいったようなものではなくて、何かしら得体の知れないごろっとした、石とか、木乃伊とか、とにかくそんなような、そしてまったく感応性なんてもののない……そうだ、つま・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・それにつれてその痕はだんだん深く、まわりが大きくなって来た。 あるものはネエヴルの尻のようである。盛りあがった気味悪い肉が内部から覗いていた。またある痕は、細長く深く切れ込み、古い本が紙魚に食い貫かれたあとのようになっている。 変な・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・という按摩は浄瑠璃屋の常連の一人で、尺八も吹く。木地屋から聞こえて来る尺八は宗さんのひまでいる証拠である。 家の入口には二軒の百姓家が向い合って立っている。家の前庭はひろく砥石のように美しい。ダリヤや薔薇が縁を飾っていて、舞台のように街・・・ 梶井基次郎 「温泉」
出典:青空文庫