・・・ティアガルテンの冬木立や、オペラの春の夜の人の群や、あるいは地球の北の果の淋しい港の埠頭や、そうした背景の前に立つ佗しげな旅客の絵姿に自分のある日の片影を見出す。このような切れ切れの絵と絵をつなぐ詞書きがなかったら、これがただ一人の自分の事・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・ 朝の中長崎についた船はその日の夕方近くに纜を解き、次の日の午後には呉淞の河口に入り、暫く蘆荻の間に潮待ちをした後、徐に上海の埠頭に着いた。父は官を辞した後商となり、その年の春頃から上海の或会社の事務を監督しておられたので、埠頭に立って・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・港の入口には、埠頭を洗う浪を食って、胴の高い船が心細く揺れている。魔に襲われて夢安からぬ有様である。左右に低き帆柱を控えて、中に高き一本の真上には――「白だッ」とウィリアムは口の中で言いながら前歯で唇を噛む。折柄戦の声は夜鴉の城を撼がして、・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 第三金時丸は、貪慾な後家の金貸婆が不当に儲けたように、しこたま儲けて、その歩みを続けた。 海は、どろどろした青い油のようだった。 風は、地獄からも吹いて来なかった。 デッキでは、セーラーたちが、エンジンでは、ファイヤマンた・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・たとい天稟の才あるも、社会人事の経験に乏しきは、むろんにして、いわば無勘弁の少年と評するも不当に非ざるべし。この少年をして政治・経済の書を読ましむるは危険に非ずや。政治・経済、もとよりその学を非なりというに非ざれども、これを読みて世の安寧を・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・横浜のイギリス埠頭場へ持って来て、洋行を送る処にして見た。やはり落ちつかぬ。月夜の沖遠く外国船がかかって居る景色をちょっと考えたが、また桟橋にもどった。桟橋の句が落ちつかぬのは余り淡泊過ぎるのだから、今少し彩色を入れたら善かろうと思うて、男・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・も一歩進めて、宇品の埠頭に道後旅館の案内がある位でなくちゃだめだ。松山人は実に商売が下手でいかん。」「なるほどこりゃ御城山に登る新道だナ。男も女も馬鹿に沢山上って行くがありゃどういうわけぞナ。」「あれは皆新年官民懇親会に行くのヨ。」「そ・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・十余年の昔、夫ピエールと二人で物理学校の中庭にある崩れかけた倉庫住居の四年間、ラジウムを取出すために瀝青ウラン鉱の山と取組合って屈しなかった彼女の不撓さ、さらに溯ってピエールに会う前後、パリの屋根裏部屋で火の気もなしに勉強していた女学生の熱・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・彼の人及び芸術家としての壮大な歓び、悲しみ、辛苦、不撓な芸術への献身などは、ルネサンスの花咲きみちた十五世紀の伊太利、その自由都市国家フィレンツェの人民の繁栄及び近代的進歩の挫折の過程と、たちがたい関係をもって互につながり合っているものであ・・・ 宮本百合子 「現代の心をこめて」
・・・ニージュニ・ノヴゴロド市の埠頭、嘗てゴーリキーが人足をしたことのある埠頭から、ヴォルガ航行の汽船が出る。母なるヴォルガ河、船唄で世界に知られているこの大河の航行は、実に心地のいい休養だ。ニージュニときくと、恐らく或る者はそう思いもするだろう・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
出典:青空文庫