・・・「しかし僕はふとした拍子に、この国へ転げ落ちてしまったのです。どうか僕にこの国から出ていかれる路を教えてください。」「出ていかれる路は一つしかない。」「というのは?」「それはお前さんのここへ来た路だ。」 僕はこの答えを聞・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・もしその時私がふとした事でも申しましたら――」と、術なさそうに云うのです。これには新蔵も二度吐胸を衝いて、折角のつけ元気さえ、全く沮喪せずにはいられませんでした。明後日と云えば、今日明日の中に、何とか工夫をめぐらさなければ、自分は元よりお敏・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 押並んで、めくら縞の襟の剥げた、袖に横撫のあとの光る、同じ紺のだふだふとした前垂を首から下げて、千草色の半股引、膝のよじれたのを捻って穿いて、ずんぐりむっくりと肥ったのが、日和下駄で突立って、いけずな忰が、三徳用大根皮剥、というのを喚・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・文雄は、ふとしたかぜをひきました。そして、それがだんだん重くなって床につきました。良吉は心配して、毎日のように文雄の家へいっては、病気をみまいました。文雄の両親もいっしょうけんめいで看病いたしました。けれど、ついに文雄はなおりませんでした。・・・ 小川未明 「星の世界から」
・・・ところが、そんな寺田がふとしたことから競馬に凝りだしたのだから、人間というものはなかなか莫迦にならない。 寺田は一代が死んで間もなく史学雑誌の編輯をやめさせられた。看病に追われて怠けていた上、一代が死んだ当座ぽかんとして半月も編輯所へ顔・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・している見事さは、市井事もの作家の武田麟太郎氏が私淑したのも無理はないと思われるくらいで、僕もまたこのような文学にふとしたノスタルジアを感ずるのだ。すくなくとも秋声の叫ばぬスタイル、誇張のない態度は、僕ら若い世代にとってかなわぬものの一つだ・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
・・・ ところが、最近、ふとしたことから、この空想の致命的な誤算が曝露してしまった。 元来、猫は兎のように耳で吊り下げられても、そう痛がらない。引っ張るということに対しては、猫の耳は奇妙な構造を持っている。というのは、一度引っ張られて破れたよ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ S―は最初、ふとした偶然からその女に当り、その時、よもやと思っていたような異様な経験をしたのであった。その後S―はひどく酔ったときなどは、気持にはどんな我慢をさせてもという気になってついその女を呼ぶ、心が荒くなってその女でないと満足で・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 男の児がふとした拍子にこの窓を見るかもしれないからと思って彼は窓のそばを離れなかった。 奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光りながら過ってゆくものがあった。 鳩? 雲の色にぼやけてしまって、姿は見えなかったが、・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・「そうこうするうち次郎坊の方をふとした過失で毀してしまった。アア、二箇揃っていたものをいかに過失とは云いながら一箇にしてしまったが、ああ情無いことをしたものだ、もしやこれが前表となって二人が離ればなれになるような悲しい目を見るのではある・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
出典:青空文庫