・・・どこからともなくたくさんの蝙蝠が蚊を食いに出て、空を低く飛びかわすのを、竹ざおを振るうてはたたき落とすのである。風のないけむったような宵闇に、蝙蝠を呼ぶ声が対岸の城の石垣に反響して暗い川上に消えて行く。「蝙蝠来い。水飲ましょ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・と女の顔には忽ち紅落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心躁ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間に臥したるは君とわれのみ。楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・山と盛る鹿の肉に好味の刀を揮う左も顧みず右も眺めず、只わが前に置かれたる皿のみを見詰めて済す折もあった。皿の上に堆かき肉塊の残らぬ事は少ない。武士の命を三分して女と酒と軍さがその三カ一を占むるならば、ウィリアムの命の三分二は既に死んだ様なも・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・兵馬匆卒の際、言論も自由なれば、思うがままに筆を揮うてはばかるところなく、有形の物については物理原則のあざむくべからざるを説き、無形の事に関しては人権の重きを論じ、ことに独立の品行、自尊自重の旨を勧告してその著書も少なからず、これがために当・・・ 福沢諭吉 「成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ」
・・・ 人として更たまった、身も震うような新鮮な意気と熱情とを以て人として生き抜こう為に、箇性の命ずる方向に進展して行こうとする女性の希望と理想とは、真実に深く激しいものである。 確かりと自分の足で、この大地を踏まえて行く生活! 今まで項・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・そりゃあひどく震うんですって。余り震えるからって、うちへ来なさいましたから古洋服だの靴まで貰ってよろこんでかえりなさいましたよ。偉いんですよ。気違いじゃあないんです。少し頭が変なんです。この間来なすった時、明治神宮の前できび団子でもこさえて・・・ 宮本百合子 「一九二三年冬」
・・・狂言の行中には、いつも少し魯鈍でお人よしな殿と、頓智と狡さと精力に満ちた太郎冠者と、相当やきもちの強い、時には腕力をも揮う殿の妻君とが現われて、短い、簡明な筋の運びのうちに腹からの笑いを誘い出している。 武家貴族の生活が婦人を愉しく又苦・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・お金はまだ降っているかしらと思って、耳を澄まして聞いているが、折々風がごうと鳴って、庭木の枝に積もった雪のなだれ落ちる音らしい音がする外には、只方々の戸がことこと震うように鳴るばかりで、まだ降っているのだか、もう歇んでいるのだか分からない。・・・ 森鴎外 「心中」
・・・そうしてその殻を破るために鉄槌を振るうがいい。その時に初めて偶像再興に対する新しい感覚が目ざめて来るだろう。 しかし予はただ「古きものの復活」を目ざしているのではない。古きものもよみがえらされた時には古い殻をぬいで新しい生命に輝いている・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫